2016年08月26日

#02 坂本悦雄さん

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(さかもと・えつお)
1929年、青森県生まれ。1935年、入学した村の小学校で不登校状態となり、祖母と同伴登校の日々を送る。1953年、弘前大学卒業、郷里の中学校に赴任。この当時に不登校の生徒に出会い、以来、不登校に関わっている。89年ごろからは自宅で、不登校、非行の子どもたちの居場所「心の窓」を開いてきた。学習援助も週2回ほどやってきたが、親の相談に力を入れてこられ、子どもたちが安心して家に居られるようにと「親の会」も開いている。63年より、県立八戸北高校、青森県立六ヶ所高校教頭を経て、83年より青森県教育庁に勤務。その後、八戸西高校、八戸中央高校校長を経て、89年より八戸市総合教育センター勤務(5年間)。94年より八戸大学勤務(准教授/5年間)。八戸あおば高等学院顧問。


インタビュー日時:2016年7月2日
聞き手:奥地圭子
場所:栃木県小山市
*坂本さんは青森県八戸市在住だが、インタビュー当時、休養・保養のために御夫妻で小山市の娘さん宅に滞在されていた。
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〈テキスト本文〉

奥地:まずは坂本先生の生い立ちからうかがいたいんですが、ご自身、不登校経験がおありだそうですね?

坂本:もう本当に何もない青森県の山奥で生まれました。バスも通っていなくて、食べ物が何もない。肉もない、魚もない。それで小学校に入学するんですが、私自身がひとりでは小学校に行けなかったんですよね。祖母が私のことを毎日連れて行って、それで廊下で針仕事をしてましたよ。

奥地:何年ごろのお話ですか?

坂本:昭和10年(1935年)ごろだったかな? 戦前ですね。私は4月1日の午後10時生まれなので、あと2時間遅ければ次の学年になるのにね(笑)。学校に行けないものだから、役場に下の学年じゃダメかとお願いしたんですが、ダメでした。お願いなんてしないで黙って届ければよかったんでしょうけど(笑)。みんなには「おばあちゃんと行けていいな、いいな」なんて言われましたよ。

奥地:今で言うところの同伴登校ですよね。当時、学校に対してどう思っておられましたか? こわかったんですか?

坂本:ただ、行けなかった。「学校」って言っただけでダメだったね。それでも約2年間、毎日、祖母に連れて行ってもらって、結局、尋常小学校、高等小学校(*1)とも無欠席だったけどね。そのあと、中学校に通うのがまた遠くて大変なわけね。田舎から三戸に出て八戸までだから、32q、歩くんです。汽車のキップもなかなか買えなかったですし、当時は戦時中で食料事情がたいへん悪く、下宿先にあげるお米を背負って行くものだから、次の日は肩が痛くて。1週間は痛かった。

奥地:そうやって育って、それから師範学校に行かれたわけですか?

坂本:ちょうど戦後になって、師範学校が切り替わるところで、弘前大学になりました(*2)。

奥地:それで弘前大学を出られて、地元に赴任されたわけですね。

坂本:昭和28年(1953年)からですね、学校の先生をはじめたのは。大学時代に地元の村から奨学金をもらってたんでね。村から、1年でもいいから地元の中学校に来てほしいと言われていたんです。それで、10年間務めました。

奥地:10年いたわけですか!

坂本:1年でいいってところを10年も(笑)。
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【インタビュー:学校関係の最新記事】
posted by 不登校新聞社 at 19:55| Comment(0) | インタビュー:学校関係

2016年07月19日

#01 佐藤修策さん

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(さとう・しゅうさく)
1928年生まれ。1953年、広島文理科大学卒業。岡山県中央児童相談所判定課長、高知大学教授、兵庫教育大学学長を歴任。教育学博士。1950年代後半に児童相談所で登校拒否のケースに出会い、1959年、日本で最初期に登校拒否の論文「神経症的登校拒否行動の研究―ケース分析による―」を発表。以後、不登校・登校拒否に関わり続けてきた。著書に『登校拒否児』(国土社)、『登校拒否ノート』(北大路書房)、『不登校(登校拒否)の教育・心理的理解と支援』(北大路書房)など多数。


インタビュー日時:2016年6月26日
聞き手:山下耕平、田中佑弥、貴戸理恵
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〈テキスト本文〉

山下:まず、佐藤さんが児童相談所の職員として働きはじめたころのことからうかがいたいと思います。当時の長期欠席の様相は、どんな感じでしたでしょう?

佐藤:私は昭和28年(1953年)に広島文理科大学(現・広島大学)を卒業して、最初は岡山県の教護院(現在の児童自立支援施設)に勤めたんです。その1年後に岡山県中央児童相談所に配転になり、判定員を務めていました。所長は竹内道眞(たけうち・どうしん)さんという変わった精神科医で、藪医者という評価と、神様という評価に分かれていた方でした。なぜなら薬を出さない医者で、いまで言えばカウンセリングを中心にしていた方だったんですね。


●英語で鯛は釣れん

佐藤:そのころというのは、新制中学校が昭和22年(1947年)にできて中学校まで義務教育になったものの、中学校への就学は定着していませんでした。瀬戸内海に面した下津井という漁村で、家庭訪問にまわると、学校に行っていない子がゴロゴロしていました。就学を勧めようと父親に面接すると「学校は小学校まででいい。誰も中学校をつくってくれと言うてない。英語を教えてくれる? 英語で鯛は釣れん。あとはワシが漁師に仕込む」と毅然と断られました。それが漁村ではふつうの考え方でした。そのころは「子どもを学校へ通わせるのは親の義務です」という立て看板が、方々にありました。ちょうど、いまの「飲んだら乗るな、飲むなら乗るな」みたいな感じですね。
 お父さんには中学校なんて必要ないという確固たる自信があるので、説得なんてできませんでした。漁村だけではなく、町のほうでも、学校がイヤなら行くなという考え方は多かったですね。教員も、「学校がイヤなら紹介してやるからパン屋で働け。学校には行っていることにするから」と勧めたり。いまのように学校に行かなければいけないという考えはなく、自由な雰囲気でした。ああいう雰囲気だったら、不登校なんて問題にならないんですけどね(笑)。

山下:いまのように学校に価値を置いてないわけですね。しかし、それが時代とともに、変わっていくわけですよね。

佐藤:私が大学生のころの広島は、戦後まもないころで、防空壕もそのままだし、焼けトタンを屋根に生活していたり、橋が壊れたままだったり、銀行の前に原爆で死んだ人の影が残ったままだったり、といった状況でした。しかし昭和30年代半ばごろになると、ずいぶん復興してきて、じょじょに経済的関心も高くなっていました。昭和35年(1960年)には池田勇人内閣が発足し、高度経済成長路線に入ります。そういう時代状況のなかで、従来、学校教育に関心のとぼしい家庭と、関心の高い家庭とに分極化していましたが、昭和30年代後半から教育への関心が高まり、高校や大学への進学率を押し上げていきます。高度経済政策の進展とともに、人口は田舎から都会へと移動し、教育への関心の分極化は薄くなっていきました。
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posted by 不登校新聞社 at 15:07| Comment(0) | インタビュー:心理関係

2016年07月15日

プロジェクト趣旨・概要

 学校基本調査で「学校嫌い」の統計が開始されたのは1966年。今年はそれから50年にあたります。学校を長期欠席する子どもは、学校制度とともに常にいました。しかし、現在につながる「問題」として不登校が社会現象化してきたのは、この統計開始以降とも言えます。この50年、不登校は「問題」であり続けてきました。それは、学校、教育行政、精神科医療、家族のあり方、働き方などが、さまざまに問われてきた「問題」だったと言えます。この50年は学校に行かない子どもたちにとって受難の歴史だった一方、親の会やフリースクールなどの市民運動が立ち現れてもきました。いったい「不登校50年」の歴史は何を語るのでしょう。不登校をめぐって、時代ごとにどんな状況があり、どのように問題とされ、どう対応されてきたのでしょうか。
 不登校新聞社では、「不登校50年」を機に、証言プロジェクトを開始し、不登校経験者、親、親の会、居場所・フリースクール、医者、教員、学者、弁護士など、さまざまな関係者の生の声を集め、アーカイブにしていきます。インタビュー・寄稿は、社会的意義を考え、購読者に限定したものではなく、無料で公開します。そのため、プロジェクトは、寄付によって運営します。ぜひ、このプロジェクトへのご支援・ご協力をよろしくお願いします。

2016年7月15日
全国不登校新聞社


◎プロジェクトチーム(統括:山下耕平)

・関東チーム委員:奥地圭子、木村砂織、朝倉景樹、石林一男、加藤敦也、佐藤信一、須永祐慈、関川ゆう子、野村芳美、藤田岳幸、前北海、増田良枝、松島裕之、山口幸子

・関西チーム委員:山下耕平、石川良子、貴戸理恵、栗田隆子、田中佑弥、山田潤


◎公開開始:2016年8月
・2年間にわたって、月2名ずつをめどに公開していく予定。
・本ブログにて記事を公開。
・紙面でも次号より連載を開始(インタビューの概要やプロジェクトの報告など)。

◎確定しているインタビュー
・佐藤修策(臨床心理士、教育学博士/1959年、日本で最初期に登校拒否についての研究を発表。)
・最首悟(生物学者、社会学者/1948年、小学生のころに登校拒否をしていた。障害を持った娘さんとともに歩んできた。)
・坂本悦雄(87歳。自身、戦前の小学校で不登校体験。教員となった1953年、不登校に出会い、以後、多くの不登校の子どもの成長を支えてきた。)
・小沢牧子(1960年代に心理の専門家として学校恐怖症に関わる。その後、心理学を根本から問い直し、批判的に研究している。)

◎募集
・現在、1970年代までを知る関係者の寄稿を募っています。くわしくは投稿規定を参照のうえ、東京編集局まで、お寄せください。

プロジェクトはみなさんからのすべて寄附によって運営いたします。
ご支援のほど、よろしくお願いいたします。

・郵便振替口座 00100-6-22077
加入者名  全国不登校新聞社

■問い合わせ先

・関東チーム
TEL:03-5963-5526
FAX:03-5963-5527
E-mail:tokyo@futoko.org

・関西チーム
TEL:050-5883-0462
E-mail:osaka_c@futoko.org
posted by 不登校新聞社 at 10:24| Comment(1) | お知らせ