2017年01月14日

#10 村上幸子さん(仮名)

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(むらかみ・さちこ)
1958年、宮城県生まれ。社会福祉士、精神保健福祉士、保育士。
1964年、公立小学校入学、1970年、公立中学校入学、中学2年生のときに不登校を経験した。1973年、公立高校(全日制)入学。高校卒業後、大手企業に事務職で就職。1978年、保母(現在の保育士)資格を取得。1979年に結婚し、その後、夫の転勤で関西へ。1994年、保母として就職。2001年、宮城に戻って児童館の臨時職員になる。2009年、大学(通信制)に入学。2014年、大学卒業と同時に、社会福祉士・精神保健福祉士の国家資格を取得。社会福祉協議会に入職(臨時職員)。現在、放課後等デイサービスで働きながらスクールソーシャルワーカーとしての就職を目指している。

インタビュー日時:2016年10月17日
場 所:東京シューレ
聞き手:奥地圭子
まとめ:奥地圭子、勝野有美

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〈テキスト本文〉

奥地:お生まれはどちらですか?

村上:生まれは宮城県で、生まれた町は、企業誘致で作られた工業地区と商業地区、昔ながらの農村の色合いが濃い地域が融合している町です。


●小学校時代〜1960年代後半

奥地:小学生時代は1960年代後半ですね。学校はどんな感じでしたか?

村上:小学校3〜4年生くらいまでは、学校に行くのが楽しくて仕方がなかったです。私は、山を越えて探検するほどに活発な子どもで、学校自体も、のんびり、ほのぼのとしていました。

奥地:私が教師になったのも60年代ですが、ほのぼのとしていましたよね。人情が厚いというか、学校の先生も、おっかなく取り締まるような感じではなくて温かかったですよね。東京もそうでした。 

村上:ですが、初めて学校に対して違和感を持ったのが、小5のときです。カゼをひいたのをきっかけに、仮病を使って何週間か長く休んだことがありました。いま思えば、プレッシャーを抱えていて、「学校を休みたい」「学校に行きたくない」という気持ちが芽生え始めていたのだろうと思います。

奥地:カゼが治っても学校に行きたくなかったのは、何か学校に対して思うところがあったんですか? もし小4までのように楽しく通っていたのならば、カゼが治ったら、また学校に行きたいだろうと思うんですけれど。

村上:はっきりとした記憶はないのですが、礼儀作法の指導が厳しい担任の先生に対して思うところがあったのかもしれませんね。私自身は当時、学級委員をやっていたし、学校の成績はよくて、1番か2番でした。みんなのお手本にならないといけないというプレッシャーがありました。

奥地:なるほど。それはわかります。本音を言うと、しんどかったかもしれないですね。ときにはがんばって得意な気分だけど、ときにはしんどい気持ちになっちゃう。カゼを含めて、どれくらいの期間、学校を休んだか覚えていますか?

村上:あいまいですが、半月ほど続けて学校を休んだと思います。そのころ、教師から「長いね。こんなに長引くなんて、万病の元だからしっかり治しなさい」と言われたことを記憶しています。

奥地:親御さんは、長く学校を休んでいることについて何か言っていましたか? よろしければ、ご家庭の職業を教えてください。

村上:何も言われませんでした。父親は農協職員、母親は専業主婦で、家で内職をしていました。よく言えば放任主義で、子どものことにはほとんど干渉せず、一度も「勉強しろ」とは言われませんでした。

奥地:たしかに、そのころは東京の下町でも、ほとんど、勉強しろとかこうしろとか言う親は少なかったですね。だから楽しかったのかもしれませんね。学校ものんびり、家庭ものんびりだった気がします。
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posted by 不登校新聞社 at 10:21| Comment(0) | 当事者

2016年12月08日

#09 石川憲彦さん

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(いしかわ・のりひこ)
1946年、神戸市生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。1987年まで東大病院を中心とした小児科臨床、とりわけ障害児医療に携わり、共生・共学の運動に関与。患者の子どもたちが成人に達したことなどから、東大病院精神神経科に移る。1994年、マルタ大学で社会医学的調査を開始し、1996年から静岡大学保健管理センターで大学生の精神保健を担当。同所長を経て、現在は林試の森クリニック院長。著書に『治療という幻想―障害の医療からみえること』(現代書館1988)、『こども、こころ学―寄添う人になれるはず』(ジャパンマシニスト社 2005)、『みまもることば: 思春期・反抗期になってもいつまでもいつまでも』(ジャパンマシニスト社 2013)など多数。また、雑誌『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』編集協力人で、毎号、同誌に記事を載せている。

インタビュー日時:2016年9月21日
場 所:林試の森クリニック
聞き手:山下耕平、栗田隆子、山田潤
記事編集・写真撮影:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下:まずは、ご自身の子ども時代、学校経験からうかがいたいと思います。

石川:私は戦争直後(1946年)の生まれ。ある意味では、日本社会がどん底の時代に生まれたわけです。しかし、それは当時の世界のほとんどの人と同じ地平にいたということです。食うや食わずやで生きていながら、どん底で不安も大きかったけれども、そこから何かが開けるという開放感があった。そういう時代の空気のなかで育ってきました。
 学校はというと、まず幼稚園や保育園には行けませんでした。家の経済事情もあって、日曜日だけ隣の人に教会学校に連れていってもらいました。近所では、4〜5歳から中学1〜2年までの子が混ざって遊んでました。戦後すぐの神戸は焼け野原で、廃屋だとか、あやしげなものもたくさん残っていましたね。いまの神戸市の岡本のあたりですが、まだ田んぼも多かった。でも、4人兄弟の一番下だったこともあって、みんなが学校に行ってしまうと、ぽつんと家に残されてしまう。みんなが学校から帰ってくると、ようやく遊べる。学校って、どんないいところなんだろうと思ってました。だから、学校に行けたときは誇らしくてね。ようやく認められた、みたいな思いがありました。
 それと、戦後の学校は牧歌的な、開放された感じもあって、あまり、いやな記憶は残ってません。もちろん怖い先生がいたり、子どもどうしでケンカしたり、いろいろあったけど、私は病弱だったんで、イヤなときは都合よく体調が悪くなって、小学校の前半は、3分の1くらいは休んでいたと思います。学校を休んだとき、すごく楽しみだったのは、給食のコッペパンをザラバン紙にくるんで届けてくれたことです。けっしてうまくはないけど、友だちが届けてくれるのはうれしかった。そういう郷愁というか、楽しかった思いがあります。

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posted by 不登校新聞社 at 13:10| Comment(0) | 医療関係

2016年11月27日

#08 藤野興一さん

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(ふじの・こういち)
1941年、鳥取県生まれ。同志社大学卒業。学生運動、労働運動を経て、1976年、鳥取こども学園の児童指導員となる。1994年、情緒障害児短期治療施設「鳥取こども学園希望館」の開設に関わる。現在、社会福祉法人鳥取こども学園常務理事・園長。

鳥取こども学園:前身は、鳥取孤児院・育児院(1906年創設)。1949年、財団法人「鳥取子ども学園」に名称改称。1952年、社会福祉法人へ組織変更。ゆったりとした敷地内に、児童養護施設、乳児院、保育所、情短施設、診療所、養育研究所などを開設、その他、自立援助ホーム、若者サポートステーション、作業所など幅広く児童・青年のための福祉施設を運営。

インタビュー日時:2016年10月3日
聞き手:増田良枝、関川ゆう子
場所:全国社会福祉協議会種別談話室(東京都千代田区)
写真撮影:関川ゆう子
まとめ:増田良枝、関川ゆう子

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〈テキスト本文〉

増田:はじめに、鳥取こども学園とご自身についてうかがいたいと思います。

藤野:僕は孤児院の住込み職員の子どもだったものですから、戦後、まわりがみんな戦災孤児の時代に、自分だけが目の前に親がいるので、逆に、非常に不便な思いをして育ちました。ですから、施設のなかで生まれて、そのなかで育って、ずっと施設と関わってきたんですね。そのことが、いまに活きているのかなと思っています。
 大学は、同志社の福祉を選びました。1960年入学ですから、学生運動の時代です。学友会という全学自治会の委員長までやっていたんですが、60年安保で挫折を味わいました。その後、やっぱり労働運動だということで、全電通労働組合という、電電公社(現NTT)の労働組合の専従書記として入りました。当時、ILO(国際労働機関)で、在籍専従(組合員が勤務先に籍をおいたまま、労働組合の専従者になること)が廃止になって、そういうなかで大卒の専従を募集するというので書記になったんです。先だって亡くなった日本労働組合総連合会初代会長の山岸章さん(1929〜2016)が、当時は書記長的なことをやっておられました。

増田:藤野さんが、児童養護施設それから情緒障害児短期治療施設をやってこられた理由が、なんとなくわかりました。

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posted by 不登校新聞社 at 20:21| Comment(0) | 施設関係