2018年02月06日

#32 山口由美子さん

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(やまぐち・ゆみこ)
1949 年佐賀県生まれ。3 人の子どもの母親。2000 年5 月、西鉄バスジャック事件に遭遇し、全身10 ヵ所以上も斬りつけられ、重傷を負わされた。事件で亡くなられた塚本達子さんとは、塚本さんの主宰していた幼児室を通しての知り合いであり、事件当日は、塚本さんといっしょにコンサートに行く途中だった。山口さんは、事件後、佐賀市内で親の会「ほっとケーキ」や子どもの居場所「ハッピービバーク」の活動を始め、現在も続けている。2015 年3 月、九州大学大学院統合新領域学府ユーザー感性学修士課程修了。

インタビュー日時:2016 年10月29日
聞き手:奥地圭子、山口幸子、木村砂織
場 所:飲食店(福岡市)
写真撮影:木村砂織
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〈テキスト本文〉

●いじめからの不登校

奥地 今日はよろしくお願いします。山口さんのお子さんの不登校はいつからですか?

山口 最初は1995年で、娘が小学校5年生のときに行きしぶり、6年生のときに1カ月だけ行けなくなったことがありました。中学校はほとんど行きませんでした。でも、小学校のときは先生と話し合いをして、クラスの雰囲気が変わったこともあり、学校にもどれたんですね。

奥地 小学校5年生までは何ごともなく通えていたのか、それとも何か悩みながら通っていたのか、そのあたりはどうだったんでしょう。

山口 それまで、とくに変わったことはなかったです。5年生のときに担任の先生が産休に入って、臨時採用の先生になったんですが、その先生に娘は気に入られたようで、そのためにクラス全員から、いやな感じに思われていたようです。本人も非常に困っていました。よく放課後に「お手伝いしてくれ」と頼まれて、私には「早く帰りたいのに」と言っていました。先生とクラスの子の関係が悪くて、そのクラスは学級崩壊状態でした。

奥地 それがもとで?

山口 そう、子どもたちの先生に対する抗議ですかね。その臨時採用の先生は12月までだったので、その後2カ月間はベテランの先生をつけてくださったんです。そうしたらクラスのようすが変わって、落ち着いてきました。

奥地 やり方が上手だったってこと?

山口 そうそう。その後、3月に産休をとっていた担任の先生がもどってこられたんですね。その先生は子どもが大好きな先生で、子どもたちがイキイキと変わっていったんです。6年生も持ち上がる予定だったので「よかったね」と話していたら、始業式の日、娘が「先生の替わったとんさった」と言って、しょんぼりして帰ってきました。私が、あわててて先生に電話したら、「実はまた妊娠したので、6年生の担任は降ろされてしまいました」と返事がありました。そこで「おめでとうございます」って言うしかなくて……。それで、新しい担任を迎えたんですが、またクラスが荒れ出したんです。5年生で不登校になりそうになったとき、クラスの役員の方に相談していたこともあり、6年生は私がPTAの役員をしますと言って、引き受けていたんです。

奥地 何とかしようと思って?

山口 そうですね。保護者会を開いたら、親たちも子どもから「授業がいっちょんおもしろなか(いっこうにおもしろくない)」と聞いていて、クラスが荒れていることは知っていました。そうこうしているうちに、娘が「行きたくない」って言うので、「もう行かんでいいよ」と言いました。私は、ほかの親たちとも先生ともつながっていたので、安心して休ませることができました。
 休み始めてからは、昼夜逆転あり何でもありで、行きたいところには、私の時間の許すかぎり自由に連れて行ってました。担任の先生もときどき来てくださったんですが、娘に「先生が来られたけど、どうする?」と聞いて、「今日は会いたくない」と言うときは、お断りするようにしていました。そのうち、「会ってもいいよ」と本人が言ってからは、先生と会うようになって、その際に「そろそろ学校に来てみたら?」と言われて学校に行き始めました。そのとき、「私は、いじめられてて、心が針みたいに細くなっていた。でも、もう太ったから大丈夫」と言って登校し、「学校って、楽しいところだったんだね」とも言っていました。以前とちがって、学校やクラスの雰囲気が変わっていたんですね。

奥地 それは何月ぐらいのことですか?

山口 2学期の9月ごろだったと思います。

奥地 なるほど。中学校は、そこの小学校の子が行くところだったんですか?

山口 そうです。ふたつの小学校の生徒が混ざるところです。中学校は最初から、「行きたくないな〜」って言ってました。「制服いやだな〜。校則もいっぱいあるみたいだな〜」って言いながら学校に行って、学級委員になって帰ってきたんです。入学式の日に委員を決めるんですが、生徒がみんな下を向いて黙っているので、娘は「早く帰りたいから、もう決めてきたよ」って言っていました。

奥地 ある種、合理的ですね(笑)。

山口 でも、ほかに、やりたい子がいたようなんですね。それでまた、そんな子からいじめが始まって、そのようすを見て不登校になった男の子がふたりいたようです。それぐらい、たいへんだったというのは、あとで知ったんですが。
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posted by 不登校新聞社 at 17:43| Comment(1) | 親/親の会

2018年01月25日

#31 内田良子さん

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(うちだ・りょうこ)
1942年、朝鮮慶尚南道生まれ。終戦で引き揚げ長野県で育つ。東京女子大学を卒業後、1973年より27年間、佼成病院小児科心理室で心理相談員を務めた。また、1973年から東京都内の複数の保健所でも心理相談員を務め、現在も続けている。1988年から2011年まで23年間、NHKラジオ「子どもと教育電話相談」「子どもの心相談」を担当した。1998年、子ども相談室「モモの部屋」を設立。著書に『カウンセラー良子さんの子育てはなぞとき』『幼い子のくらしとこころQ&A』『登園しぶり 登校しぶり』(いずれもジャパンマシニスト社)など。編著に『子どもたちが語る登校拒否』『親たちが語る登校拒否』(世織書房)。

インタビュー日時:2017 年9月13日
聞き手:山下耕平
場 所:モモの部屋(東京都杉並区)

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〈テキスト本文〉

山下 まずは、ご自身の子ども時代のことからうかがっていきたいと思います。内田さんは、戦前、植民地時代の朝鮮半島でお生まれということでしたね。

内田 現在の韓国の慶尚南道です。父が現地の日本人学校(女学校)の教員をしていたんですね。私は1942年生まれなので、2歳半で終戦を迎えて引き揚げてきました。ですから、当時のことは記憶には残ってません。引き揚げ先は、父の郷里である長野県富士見町立沢でした。八ヶ岳のふもとで、小学校4年生まで住んでいました。

山下 このプロジェクトのインタビューでも、幾人もの方から引き揚げのご苦労の話をうかがっています。ご苦労も多かったのではないでしょうか。

内田 とくに母はたいへんな思いをしたそうです。終戦時、一番上の兄が8歳で、姉が5歳、私が2歳で、おなかには弟がいたんです。しかし、父は戦争の最後の状況のなかで応召されてしまっていた。引き揚げの途中で赤ちゃんを産んでしまったらつれて帰れないだろうし、3人の子どもをつれての引き揚げは困難をきわめると思って、母は駐屯地に無断で入り込んで、父を返してくれと司令部に直訴したそうです。父は帰ることを許されて、いっしょに引き揚げることができたんです。ただ、無事に日本にたどりつくかはわからないので、私のリュックには道中の遊び道具と、途中でひとり旅立つことがあってもさびしくないようにと、おひなさまの小道具を入れてくれていたそうです。


●先生の言うことは信じちゃいけない

山下 学校との関係は、どうだったんでしょう。

内田 1948年に小学校に入学しているので、新制学校になって2年目ですね。兄は教科書に墨を塗っているんですが、私のときは新しい教科書になってました。いわば民主化した学校に入ったわけですが、小学校に入るとき、母は「学校に行っても、先生の言うことを信じちゃいけないよ。先生はまちがえることがある。私たちの時代は、学校の先生の言うことを聞いて戦争したのだから」と言いました。
 母自身、子ども時代に学校が好きじゃなかったみたいなんですね。身体が弱かったのと、医者の娘だったこともあって、家庭教師がついて家で過ごすことが多くて、学校にはあまり行ってなかったようです。家で世界文学や日本文学を読みふける、作家志望の文学少女でした。学校を通して上から教えられたのではなく、本から知識を得て教養を身につけた人でした。だから、いざというときも、自分で考えて、自分で判断して行動できたんだと思います。
 子どもたちにも、「先生の言うことは信じないで、自分で考えなさい」と言っていて、子どもながらに緊張感をもって、先生にだまされないように最初から疑ってかかってました(笑)。よく日本の親は「学校に行ったら先生の言うことをききなさい」と言いますよね。しかし、私の場合は逆だったんです。

山下 とくに当時では、そういう親御さんはめずらしかったでしょうね。内田さんご自身も、あまり学校には行ってなかったそうですね。

内田 しょっちゅう休んでました。家から学校まで、子どもの足で歩いて小1時間もかかって、遠かったということもありました。山の中で、とくに冬は雪が深く寒くてたいへんでした。それと、担任が軍隊帰りの若い先生で、何か気に入らないことがあると、すぐ革のスリッパで子ども全員の頭をたたいていた。私自身は、しょっちゅう休んでいたせいで、あまり記憶にないんですが、それもイヤだったと思うんです。頭が痛い、おなかが痛い、下痢をする、吐くということで、体調不良でしょっちゅう休んでました。のちに病院の心理室で出会った子どもたちといっしょで、私は身体で登校拒否をしていたんだと気づきました。
 それと、当時は食べるものがほんとうになくて、私はやせて食も細く、母は「この子は身体の弱い子だから、20歳まで生きられるかわからない」と思っていたそうです。農村だったので、農家は食べ物がある。だけど、私たちは給与生活者で農協に行って買わないといけない。当時、父は県立高校の教員だったんですが、その給料だけではまかなえませんでした。野菜は庭でつくってましたが、主食の米やしょうゆは買わないといけないですし、食べるに事欠いていた。
 そういう状況だったので、具合が悪いというと、すぐ休ませてくれたんです。無医村だったので、具合が悪いから医者に行くということもない。健康保険制度もまだなかったですし、家で寝て治す時代でした。
 母は弟を背負って山に植林に行ったり野良仕事で、私は日がな家にいて、ひとりでお留守番で、庭で草木や動物と遊んだりしていました。それで、そろそろ行かないとまずいなとか、退屈したなと思うと、ちょっと行ってみてはまた休む。そんな感じでした。

山下 どれくらいの割合、休んでいたんですか?

内田 3分の1から半分ぐらいは休んでいたように思います。子どもながらに、半分以上休んだら進級できないかなと思って、ときどきは行ってました。よかったのは、当時はテストがなかったんですね。印刷にお金もかかるし紙もないから、できなかったんです。ですから、どこまでわかってるかも確認されない。しばらく休んでても、その日の授業は、聞いたらわかる。ですから、自分が遅れているとは、まったく思ってなかったんですね。テストがなかったのは、すごくいい時代だったと思います。

山下 新制学校制度になって10年ほどは、学校もずいぶん牧歌的だったそうですね。

内田 体育や理科の授業でも、河原に遊びに行き砂を持ってきて校庭を整地したり、宿題がイナゴをとってくることで、それを集めて売って教材費にしていました。ほんとうに牧歌的だったと思います。それでも私は学校がきらいだったんですが、いまと比べれば、子どもの居場所たりえたんだと思います。
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posted by 不登校新聞社 at 16:27| Comment(0) | 心理関係

2017年12月29日

#30 山下英三郎さん

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(やました・えいざぶろう)
1946年、長崎県生まれ。日本社会事業大学名誉教授。NPO法人修復的対話フォーラム理事長。早稲田大学法学部卒業後、社会人経験を経た後1983年にユタ大学ソーシャルワーク学部修士課程に入学、1985年に同課程を卒業。1986年から埼玉県所沢市において、日本で初のスクールソーシャルワーカーとして実践活動を行なう。また、1987年から2010年まで子どもの居場所「バクの会」の運営に携わる。1997年から日本社会事業大学教員。1999年、日本スクールソーシャルワーク協会を立ち上げた。著書に『いじめ・損なわれた関係を築きなおす』『エコロジカル子ども論』(ともに学苑社)など多数。

インタビュー日時:2017 年9 月18 日
聞き手:須永祐慈、増田良枝、中村国生
場 所:山下英三郎さんご自宅(長野県)
写真撮影:中村国生

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〈テキスト本文〉

須永 よろしくお願いします。山下さんは、さまざまな子どもたちと出会ってこられたと思うのですが、その話の前に、山下さんご自身の経歴からおうかがいしてよろしいでしょうか?

山下 生まれは長崎市で、1946年に生まれました。

須永 長崎市内ですか?

山下 長崎市内です。僕が生まれる7〜8カ月前に原子爆弾が落ちました。僕の母がいた場所は中心街ではなかったけれども、翌日、何もわからず知人を探しに爆心地に行ったそうです。そのとき僕はおなかにいたので、胎内で放射能を浴びた「胎内被爆児」なんです。
ただ、被爆認定は18歳になってからと遅くて、ある日突然、被爆者手帳がきた感じでした。
 なんでその話をしたかというと、その後の人生行動に大きく影響するからなんです。突然降ってわいた胎内被爆児という経験は、僕にとっては現在にいたるまで、体のことや命のことと密接に関わっています。その後、18歳で長崎を出て、東京の大学に行き、1969年に大学を卒業しました。卒業後、とくにやりたいこともなかったので、鉄鋼関係の商社に就職しました。

増田 大学の学部は?

山下 法学部なんですよ。

増田 法学部で鉄鋼ですか?

山下 そうです。

須永 おもしろいですね。

山下 法学部はいただけで、法律を勉強したわけじゃなかったんです(笑)。

須永 当時は学生運動の時代ですか?

山下 そうです、全共闘の時期です。1965年、大学に入った年に学費値上げ闘争があって、学生たちが大学を封鎖して、全学ストライキが100日間にわたって続くということがあったんです。だから、そのぶんずれ込んで、2年生になったのは8月でした。田舎からぽっと出てきて大学に入って、いきなりそういう出来事に遭遇したので、そこで少しものごとを考えるようになりました。それまでは生き方も迷ってて、あまり先のことは考えてなかった。
 大学闘争の影響はすごく大きかったんですね。当時、学生たちが言っていたことは、主張としてはまっとうだと思いました。同時期にベトナム戦争が激しくなってきたので、それも根が深い運動として、直接は関わりませんでしたが、いろいろ考えるきっかけになりました。結局、大学4年間は、ずっと大学闘争の時代だったんですよね。
 だけど、運動がどんどん過激になって、僕が卒業したころには赤軍派の活動がだんだん活発になる状況でした。大学のなかでも、運動する人どうしが争うのを見て、おおもとの言っていることは同じはずなのに、細かいところで対立して、しまいには暴力をふるうようになってしまった。一番衝撃だったのは、連合赤軍の浅間山荘事件と、その直前に起きたリンチ殺人事件です。あれにはすごく挫折感を感じた。そのとき、暴力対暴力では絶対に解決がつかないと思ったんですよね。
 同時期に、アメリカでは公民権運動が始まってました。キング牧師の非暴力主義に、僕はすごく惹かれて、キング牧師のことを研究したとまでは言わないけど、大事なのはこれじゃないかと思ったんです。とはいえ、大学時代には何も考えがまとまらず、とりあえず就職するしかないので、鉄鋼関係の商社に行ったわけです。
 学生時代、アメリカの若者たちが平和部隊の隊員としでアフリカで活動しているのを知って、自分もそういう活動に参加したいという想いがありました。ですので、英語サークルに入って英会話を学びました。鉄鋼関係の小さい商社で英語ができれば、外国に行けるのではないかと思ったのが就職の動機でした。
 だけど、実際には行くチャンスはなかったですね。入ったら、会社自体ぜんぜん合わなくて……。そのころはちょうど経済成長期で、とにかくイケイケな雰囲気で、だけど僕は、学生のときに産学協同路線にすごく違和感を覚えていたから、自分の考え方と会社の現実がちがうことにすごく苦しくなっちゃったんです。商社の仕事が苦しくて苦しくて、これはもう続けちゃいけないと思ったんです。
 しかも、やる気がないからまったく仕事をせず、出社して朝礼を終えたら、すぐ会社を出て喫茶店でお茶を飲んだり、友だちが営業に行くと、僕もいっしょについて行ったり、ときどきは映画を観に行ったり、友だちといっしょにボウリングに行ったりしてました。
 しかし、そればかりだと、ちょっとむなしいなと思ってね。いくらなんでも、会社に迷惑をかけるし、自分もつらかったので、とにかく辞めようと思ったんです。だけど、辞めたところで何をやっていいかわからない。

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posted by 不登校新聞社 at 09:04| Comment(0) | 居場所・フリースクール関係