2016年09月14日

#03 最首悟さん

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(さいしゅさとる)
1936年福島県生まれ。シューレ大学アドバイザー。元和光大学教授。東京大学大学院で生物学を学び、長年同大学の助手を務めた。安保闘争などの学生運動に携わり、水俣病などの公害問題に関わるなど、思想家としても有名である。また、ダウン症であり、重複障害を抱える娘の星子さんとのかかわりから、「障害児を普通学校へ全国連絡会」の運営委員(世話人)を務め、ケアをテーマとした数々のエッセイでも有名である。おもな著作に『星子が居る――言葉なく語りかける重複障害を抱える娘との二十年』(世織書房)、『生あるものは皆この海に染まり』(新曜社)、など多数。

インタビュー日時:2016年5月17日
場所:最首悟氏自宅
聞き手・文責:加藤敦也、編集:須永祐慈

*インタビューには丹波博紀氏(最首塾世話人)も同席されていた。
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〈テキスト本文〉

* 最首悟氏は昭和18年(1943年)に、ぜんそくで転地先の千葉県の小湊国民学校 に入学し、昭和20年3月、疎開した家族と合流、福島県の喜多方町国民学校に転校、太平洋戦争終戦を経て、千葉県の房総地方にある学校に転校している。昭和22年に国民学校令が解かれ、名称が小学校に戻るが、昭和23年に病気を理由とした長期欠席を3年間経験している。以下の語りは、当時の国民学校のようすに関するものである。

●国民学校の思い出

最首:僕は昭和18年に国民学校(*1)1年生になるんだけど、僕の記憶では、そのころは教育勅語を直立不動で聞かなきゃいけない時期だった。転校した喜多方小学校(福島県)では、室内の授業がほとんどなかったですね。4月から7月までの1学期、フキを採ってた記憶しかないからね。兵隊さんのためのフキで、佃煮にする。喜多方は醤油と味噌の工場があったので、だから佃煮づくりが盛んだったのね。

加藤:教育が軍事体制で大変だったんですね。

最首:軍事体制で、子どもは少国民だから、勉強なんかしてる場合じゃないんだよな。教育勅語(*2)については、ほんとうに緊迫していた。校長や教頭、教員の緊張具合はすさまじいものがあって、それが子どもごころに伝わってきた。というのは、先生が朝の朝礼か何かで教育勅語を読みちがえたら、かならずクビが飛ぶという噂があったのね。その緊張感が伝わり、教育勅語を読みあげる場面になると、ぶっ倒れちゃう子がいたんだよね 。ぼくもぶっ倒れたことがあって、女の先生におぶわれて帰ったり、うんこもらしちゃった日もあったね(笑)。で、へらへらしちゃう子もいてさ、それがまたけしからん、ということになるんだけどね。 ろくな記憶もないけど。
 喜多方小学校のことを表しているなという思い出に「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」という志貴皇子の歌がある。あとから思ったことですが、この歌は僕が通っていた喜多方小学校時代の情景そのものなんですね。森の中に入ると、小岩っぽい小さい滝があって、さわらび(芽を出したばかりのわらび)を採って、毎日の授業が終わる。「いわばしるたるみのうえのさわらびのもえいずるはるになりにける」喜多方、5月になっても雪があってね。

加藤:そもそも教授っていうか、普通に教育が成立してなかったのですね。
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posted by 不登校新聞社 at 11:24| Comment(0) | 当事者

2016年08月26日

#02 坂本悦雄さん

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(さかもと・えつお)
1929年、青森県生まれ。1935年、入学した村の小学校で不登校状態となり、祖母と同伴登校の日々を送る。1953年、弘前大学卒業、郷里の中学校に赴任。この当時に不登校の生徒に出会い、以来、不登校に関わっている。89年ごろからは自宅で、不登校、非行の子どもたちの居場所「心の窓」を開いてきた。学習援助も週2回ほどやってきたが、親の相談に力を入れてこられ、子どもたちが安心して家に居られるようにと「親の会」も開いている。63年より、県立八戸北高校、青森県立六ヶ所高校教頭を経て、83年より青森県教育庁に勤務。その後、八戸西高校、八戸中央高校校長を経て、89年より八戸市総合教育センター勤務(5年間)。94年より八戸大学勤務(准教授/5年間)。八戸あおば高等学院顧問。


インタビュー日時:2016年7月2日
聞き手:奥地圭子
場所:栃木県小山市
*坂本さんは青森県八戸市在住だが、インタビュー当時、休養・保養のために御夫妻で小山市の娘さん宅に滞在されていた。
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〈テキスト本文〉

奥地:まずは坂本先生の生い立ちからうかがいたいんですが、ご自身、不登校経験がおありだそうですね?

坂本:もう本当に何もない青森県の山奥で生まれました。バスも通っていなくて、食べ物が何もない。肉もない、魚もない。それで小学校に入学するんですが、私自身がひとりでは小学校に行けなかったんですよね。祖母が私のことを毎日連れて行って、それで廊下で針仕事をしてましたよ。

奥地:何年ごろのお話ですか?

坂本:昭和10年(1935年)ごろだったかな? 戦前ですね。私は4月1日の午後10時生まれなので、あと2時間遅ければ次の学年になるのにね(笑)。学校に行けないものだから、役場に下の学年じゃダメかとお願いしたんですが、ダメでした。お願いなんてしないで黙って届ければよかったんでしょうけど(笑)。みんなには「おばあちゃんと行けていいな、いいな」なんて言われましたよ。

奥地:今で言うところの同伴登校ですよね。当時、学校に対してどう思っておられましたか? こわかったんですか?

坂本:ただ、行けなかった。「学校」って言っただけでダメだったね。それでも約2年間、毎日、祖母に連れて行ってもらって、結局、尋常小学校、高等小学校(*1)とも無欠席だったけどね。そのあと、中学校に通うのがまた遠くて大変なわけね。田舎から三戸に出て八戸までだから、32q、歩くんです。汽車のキップもなかなか買えなかったですし、当時は戦時中で食料事情がたいへん悪く、下宿先にあげるお米を背負って行くものだから、次の日は肩が痛くて。1週間は痛かった。

奥地:そうやって育って、それから師範学校に行かれたわけですか?

坂本:ちょうど戦後になって、師範学校が切り替わるところで、弘前大学になりました(*2)。

奥地:それで弘前大学を出られて、地元に赴任されたわけですね。

坂本:昭和28年(1953年)からですね、学校の先生をはじめたのは。大学時代に地元の村から奨学金をもらってたんでね。村から、1年でもいいから地元の中学校に来てほしいと言われていたんです。それで、10年間務めました。

奥地:10年いたわけですか!

坂本:1年でいいってところを10年も(笑)。
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posted by 不登校新聞社 at 19:55| Comment(0) | 学校関係

2016年07月19日

#01 佐藤修策さん

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(さとう・しゅうさく)
1928年生まれ。1953年、広島文理科大学卒業。岡山県中央児童相談所判定課長、高知大学教授、兵庫教育大学学長を歴任。教育学博士。1950年代後半に児童相談所で登校拒否のケースに出会い、1959年、日本で最初期に登校拒否の論文「神経症的登校拒否行動の研究―ケース分析による―」を発表。以後、不登校・登校拒否に関わり続けてきた。著書に『登校拒否児』(国土社)、『登校拒否ノート』(北大路書房)、『不登校(登校拒否)の教育・心理的理解と支援』(北大路書房)など多数。


インタビュー日時:2016年6月26日
聞き手:山下耕平、田中佑弥、貴戸理恵
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〈テキスト本文〉

山下:まず、佐藤さんが児童相談所の職員として働きはじめたころのことからうかがいたいと思います。当時の長期欠席の様相は、どんな感じでしたでしょう?

佐藤:私は昭和28年(1953年)に広島文理科大学(現・広島大学)を卒業して、最初は岡山県の教護院(現在の児童自立支援施設)に勤めたんです。その1年後に岡山県中央児童相談所に配転になり、判定員を務めていました。所長は竹内道眞(たけうち・どうしん)さんという変わった精神科医で、藪医者という評価と、神様という評価に分かれていた方でした。なぜなら薬を出さない医者で、いまで言えばカウンセリングを中心にしていた方だったんですね。


●英語で鯛は釣れん

佐藤:そのころというのは、新制中学校が昭和22年(1947年)にできて中学校まで義務教育になったものの、中学校への就学は定着していませんでした。瀬戸内海に面した下津井という漁村で、家庭訪問にまわると、学校に行っていない子がゴロゴロしていました。就学を勧めようと父親に面接すると「学校は小学校まででいい。誰も中学校をつくってくれと言うてない。英語を教えてくれる? 英語で鯛は釣れん。あとはワシが漁師に仕込む」と毅然と断られました。それが漁村ではふつうの考え方でした。そのころは「子どもを学校へ通わせるのは親の義務です」という立て看板が、方々にありました。ちょうど、いまの「飲んだら乗るな、飲むなら乗るな」みたいな感じですね。
 お父さんには中学校なんて必要ないという確固たる自信があるので、説得なんてできませんでした。漁村だけではなく、町のほうでも、学校がイヤなら行くなという考え方は多かったですね。教員も、「学校がイヤなら紹介してやるからパン屋で働け。学校には行っていることにするから」と勧めたり。いまのように学校に行かなければいけないという考えはなく、自由な雰囲気でした。ああいう雰囲気だったら、不登校なんて問題にならないんですけどね(笑)。

山下:いまのように学校に価値を置いてないわけですね。しかし、それが時代とともに、変わっていくわけですよね。

佐藤:私が大学生のころの広島は、戦後まもないころで、防空壕もそのままだし、焼けトタンを屋根に生活していたり、橋が壊れたままだったり、銀行の前に原爆で死んだ人の影が残ったままだったり、といった状況でした。しかし昭和30年代半ばごろになると、ずいぶん復興してきて、じょじょに経済的関心も高くなっていました。昭和35年(1960年)には池田勇人内閣が発足し、高度経済成長路線に入ります。そういう時代状況のなかで、従来、学校教育に関心のとぼしい家庭と、関心の高い家庭とに分極化していましたが、昭和30年代後半から教育への関心が高まり、高校や大学への進学率を押し上げていきます。高度経済政策の進展とともに、人口は田舎から都会へと移動し、教育への関心の分極化は薄くなっていきました。
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posted by 不登校新聞社 at 15:07| Comment(0) | 心理関係