2017年12月29日

#30 山下英三郎さん

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(やました・えいざぶろう)
1946年、長崎県生まれ。日本社会事業大学名誉教授。NPO法人修復的対話フォーラム理事長。早稲田大学法学部卒業後、社会人経験を経た後1983年にユタ大学ソーシャルワーク学部修士課程に入学、1985年に同課程を卒業。1986年から埼玉県所沢市において、日本で初のスクールソーシャルワーカーとして実践活動を行なう。また、1987年から2010年まで子どもの居場所「バクの会」の運営に携わる。1997年から日本社会事業大学教員。1999年、日本スクールソーシャルワーク協会を立ち上げた。著書に『いじめ・損なわれた関係を築きなおす』『エコロジカル子ども論』(ともに学苑社)など多数。

インタビュー日時:2017 年9 月18 日
聞き手:須永祐慈、増田良枝、中村国生
場 所:山下英三郎さんご自宅(長野県)
写真撮影:中村国生

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〈テキスト本文〉

須永 よろしくお願いします。山下さんは、さまざまな子どもたちと出会ってこられたと思うのですが、その話の前に、山下さんご自身の経歴からおうかがいしてよろしいでしょうか?

山下 生まれは長崎市で、1946年に生まれました。

須永 長崎市内ですか?

山下 長崎市内です。僕が生まれる7〜8カ月前に原子爆弾が落ちました。僕の母がいた場所は中心街ではなかったけれども、翌日、何もわからず知人を探しに爆心地に行ったそうです。そのとき僕はおなかにいたので、胎内で放射能を浴びた「胎内被爆児」なんです。
ただ、被爆認定は18歳になってからと遅くて、ある日突然、被爆者手帳がきた感じでした。
 なんでその話をしたかというと、その後の人生行動に大きく影響するからなんです。突然降ってわいた胎内被爆児という経験は、僕にとっては現在にいたるまで、体のことや命のことと密接に関わっています。その後、18歳で長崎を出て、東京の大学に行き、1969年に大学を卒業しました。卒業後、とくにやりたいこともなかったので、鉄鋼関係の商社に就職しました。

増田 大学の学部は?

山下 法学部なんですよ。

増田 法学部で鉄鋼ですか?

山下 そうです。

須永 おもしろいですね。

山下 法学部はいただけで、法律を勉強したわけじゃなかったんです(笑)。

須永 当時は学生運動の時代ですか?

山下 そうです、全共闘の時期です。1965年、大学に入った年に学費値上げ闘争があって、学生たちが大学を封鎖して、全学ストライキが100日間にわたって続くということがあったんです。だから、そのぶんずれ込んで、2年生になったのは8月でした。田舎からぽっと出てきて大学に入って、いきなりそういう出来事に遭遇したので、そこで少しものごとを考えるようになりました。それまでは生き方も迷ってて、あまり先のことは考えてなかった。
 大学闘争の影響はすごく大きかったんですね。当時、学生たちが言っていたことは、主張としてはまっとうだと思いました。同時期にベトナム戦争が激しくなってきたので、それも根が深い運動として、直接は関わりませんでしたが、いろいろ考えるきっかけになりました。結局、大学4年間は、ずっと大学闘争の時代だったんですよね。
 だけど、運動がどんどん過激になって、僕が卒業したころには赤軍派の活動がだんだん活発になる状況でした。大学のなかでも、運動する人どうしが争うのを見て、おおもとの言っていることは同じはずなのに、細かいところで対立して、しまいには暴力をふるうようになってしまった。一番衝撃だったのは、連合赤軍の浅間山荘事件と、その直前に起きたリンチ殺人事件です。あれにはすごく挫折感を感じた。そのとき、暴力対暴力では絶対に解決がつかないと思ったんですよね。
 同時期に、アメリカでは公民権運動が始まってました。キング牧師の非暴力主義に、僕はすごく惹かれて、キング牧師のことを研究したとまでは言わないけど、大事なのはこれじゃないかと思ったんです。とはいえ、大学時代には何も考えがまとまらず、とりあえず就職するしかないので、鉄鋼関係の商社に行ったわけです。
 学生時代、アメリカの若者たちが平和部隊の隊員としでアフリカで活動しているのを知って、自分もそういう活動に参加したいという想いがありました。ですので、英語サークルに入って英会話を学びました。鉄鋼関係の小さい商社で英語ができれば、外国に行けるのではないかと思ったのが就職の動機でした。
 だけど、実際には行くチャンスはなかったですね。入ったら、会社自体ぜんぜん合わなくて……。そのころはちょうど経済成長期で、とにかくイケイケな雰囲気で、だけど僕は、学生のときに産学協同路線にすごく違和感を覚えていたから、自分の考え方と会社の現実がちがうことにすごく苦しくなっちゃったんです。商社の仕事が苦しくて苦しくて、これはもう続けちゃいけないと思ったんです。
 しかも、やる気がないからまったく仕事をせず、出社して朝礼を終えたら、すぐ会社を出て喫茶店でお茶を飲んだり、友だちが営業に行くと、僕もいっしょについて行ったり、ときどきは映画を観に行ったり、友だちといっしょにボウリングに行ったりしてました。
 しかし、そればかりだと、ちょっとむなしいなと思ってね。いくらなんでも、会社に迷惑をかけるし、自分もつらかったので、とにかく辞めようと思ったんです。だけど、辞めたところで何をやっていいかわからない。

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2017年11月29日

#29 横湯園子さん

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(よこゆ・そのこ)
1939年、静岡県生まれ。心理臨床家。日本社会事業大学社会福祉学部卒業。1970年〜1985年まで国立国府台病院児童精神科病棟の院内学級で教員を務める。その後、千葉県市川市教育センター指導主事、女子美術大学助教授、北海道大学教授、中央大学教授などを歴任。定年退職後はフリーの心理臨床家として子ども・青年に関わる。著書に『登校拒否 専門機関での援助と指導の記録』(あゆみ出版1981)、『登校拒否――新たなる旅立ち』(新日本出版社 1985)、『アーベル指輪のおまじない』(岩波書店1992)、『魂への旅路 戦災から震災へ』(岩波書店2014)など多数。

インタビュー日時:2017 年10 月8 日
聞き手:山下耕平
場 所:飲食店(東京都)
写真撮影・記事編集:山下耕平
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〈テキスト本文〉

山下 まずは子ども時代のことからうかがいたいと思います。お生まれは、どちらでしたでしょう。

横湯 1939年、静岡県三島市に生まれました。5歳のときに沼津大空襲を経験して、沼津は98%以上が焼失し、私たちの住んでいた家も焼かれてしまいました。その後、母の故郷に移って、そこで高校生が終わるまで過ごしました。それと、父は私が1歳1カ月のときに亡くなりましたので、母子家庭で育ったんです。

山下 お父さんが亡くなられた経緯をうかがってもよいでしょうか。

横湯 父は治安維持法で逮捕されたようなんですね。「9・18事件(*1)」と聞いてますが、それがどういう事件だったのかは調べたことがなくて、わかりません。2年半の実刑に処せられて、獄中で満身結核になったそうです。獄中で亡くなると抗議運動が起きるということで仮釈放になって、釈放後に亡くなったようです。それまでにも何回も逮捕されていたようですが。

山下 何か活動されていたんでしょうか。

横湯 文学青年であった父は、文学サークルを通して社会主義に近づき、労農運動に身を投じていました。沼津空襲のとき、母が父の原稿用紙とノートと写真を持って逃げて、それが唯一、父の遺したもので、それ以上のことはわからないんです。

山下 お母さんも苦労されたことでしょうね。

横湯 母は父の身元引受人になるために、新聞紙上で「獄中結婚宣言」をして、一族から勘当された女性だったそうです。父が亡くなったあとは、父の実家からも追い出されて、子どもを抱えて苦労したようです。母の記録では、父が亡くなったあと思想犯の未亡人として辛酸をなめ、戦争が終わるまでの4年間で、30回以上、住所を変えてるんです。
 母はあまり語らなかった人ですが、活動家ではなかった母自身も2回逮捕されているそうです。恋人だった父をさがしてアジトを訪ねたところを、張り込んでいた警察官たちによって逮捕されています。東京の親族が動いて、すぐに釈放はされたものの、その際にむごい拷問も受けていたんです。いっしょに逮捕された人から少し聞いたところでは、畳針で手足の爪のあいだや腿を刺されたと言ってました。実際にはそれ以上のことがあったそうです。私もまだ中高生のころだったので、「ひどすぎるので、園子ちゃんには教えられない」と言ってました。
 母は84歳で亡くなったんですが、入院中に看護婦さんが点滴を失敗したとき、大暴れしたんです。肌をぶすぶすやられる感覚から、拷問のときのフラッシュバックが起きたんだと思います。処置室に入って、身を寄せている私に気づくと、母は「結核菌を飲まされるかもしれないから、断固闘ったんだよ」と言ったんです。私は母に身をよせて手を握って、点滴は成功しましたが、残っていた体力を使いはたしたのでしょうか。母は、その2日後に亡くなりました。拷問というのは、こんなに時間が経っても、人の人生に影響するのだと、あらためて思いました。

山下 ほんとうに苛酷な状況を生きてこられて、お母さんも、さぞかしご苦労されたことと思いますが、子どもの苦労も相当だったのではないでしょうか。

横湯 たいへんでしたけど、母の苦労と比べれば、たいしたことはなかったと思います。戦後も、一族とは連絡をとらず、食べ物もないなかで、間借りしての貧しい母子生活でした。
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posted by 不登校新聞社 at 19:49| Comment(4) | 心理関係

2017年11月15日

#28 松崎運之助さん

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(まつざき・みちのすけ)
1945年、中国東北部(旧満州)生まれ。 中学卒業後、三菱長崎造船技術学校、長崎市立高校(定時制)を経て、明治大学第二文学部卒業。 江戸川区立小松川第二中学校夜間部に14年間勤務ののち、足立区立第九中学校を経て、足立区立第四中学校夜間部勤務。2006年定年をもって退職。 著書に『夜間中学―その歴史と現在』(白石書店1979)、『学校』(晩聲社1981)、『青春』(教育史料出版会1985)、『母からの贈りもの』(教育史料出版会1999)、『ハッピーアワー』(ひとなる書房2007)、『路地のあかり ちいさな幸せ はぐくむ絆』(東京シューレ出版2014)など多数。

インタビュー日時:2017年8月22日
聞き手:佐藤信一、野村芳美
場 所:東京シューレ王子
写真撮影:佐藤信一
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〈テキスト本文〉

佐藤 今日はよろしくお願いします。最初に松崎さんご自身について、お話しいただきたいと思います。

松崎 僕は1945年に満州で生まれました。上に兄貴がいたのだけど、日本に向かって逃避行を続けるさなかに亡くなってしまった。親がついていながら、わが子をそういうふうにさせたということで、おふくろは自分も(お腹の中にいる)この子といっしょに死ぬんだと言って騒いでいたそうですが、まわりの人たちに「亡くなった子のぶんも思いを託してその子を産むんだ、みんなの希望になると思うよ」と説得されて、それで僕を生んでくれた。
 おふくろは誕生日が来るたびに、「おまえは(戦後の混乱や貧困のなか)無念の思いで死んでいった子どもたちのお余りをもらって命をつないできたんだ。だから、おまえの命の後ろには、無念の思いで死んでいった、たくさんの子どもたち、大人たちの思いがつながっているんだ。みんなに生かされてきたんだ。みんなに支えてもらったんだ」ということをまっすぐに話す人だったんです。


●おふくろとの幸せな瞬間

 長崎に戻ってきたあと、おふくろは3人の子どもを食べさせるために、男の人に混じって力仕事をして、日銭を稼いでいました。帰ってくるのが遅いので晩ごはんを買ってくるんですが、疲れているから、すぐ横になって寝ちゃうんですよね。おふくろに寝られると、子どもである僕らは寂しくてしかたがない。朝早く出かけて行って、夜遅く帰ってきて、やっと帰ってきたと思ったら、寝てしまうでしょう。子どもなりに話したいことが山ほど溜まってるわけ。それで考えたんです。早めにおふくろを迎えに行こうと。向こうの橋が見える、あの橋の街灯の下でおふくろを迎えれば、帰る道々、話すことができると思ったんですね。
 当時、僕は小学校3年生で、2歳と3歳の妹・弟の保育園の迎えも僕が行ってましたので、妹と弟を連れて橋の街灯の下に出かけて行って、子ども3人で影踏み遊びなんかやりながら、おふくろの帰りをひたすら待ってました。やがて角を曲がっておふくろの小さな姿が見えると、 もう3人が歓声をあげて「母ちゃんおかえりなさい」って、大騒ぎ。押したり、引っぱったり、抱きついたり、それで3人が同時に話し始めて、もう1日で一番幸せな瞬間なんです。

野村 なんか、すごくぜいたくな感じがしますね。

松崎 そうそう。そのおふくろとの青空みたいな、そよ風みたいなものが、以後の3人の生活を支えてくれたんですよ。
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posted by 不登校新聞社 at 15:26| Comment(0) | 学校関係