2017年05月11日

#18 竹渕陽三さんと「竹の子会」のみなさん

takebuchi01.jpg

 今回は、情緒障害児短期治療施設(以下、情短施設)の実際をうかがいたいと、大阪市立児童院(情短施設)で1962年から27年間、児童指導員を務めていた竹渕陽三さんと、60〜70年代に情短施設に入所していた方で、現在も竹渕さんを囲む「竹の子会」に集まっておられる4名の方に、お話をうかがった(偶然にも、そのうちのおひとり、児島一裕さんは、日本で最初期のフリースクール「地球学校」創設者であり、本プロジェクトで、あらためてインタビューにうかがう予定)。前半は竹渕さんに、後半は、おもに「竹の子会」のみなさんにお話をうかがっている。

◎竹渕陽三さん

(たけぶち・ようぞう)1932年、長野県生まれ。立教大学卒業後、牧師になるため神学校に進むが中退し、法務教官として神戸再度山学院(初等少年院)に勤務。その後、大阪少年鑑別所を経て、1962年、大阪市立児童院(情緒障害児短期治療施設)開設当初から、児童指導員として1989年の定年まで勤めた。定年後は、児童養護施設で働いていた。(写真中央)

◎竹の子会

大阪市立児童院の入所経験者の有志で竹渕さんを囲む会。インタビュー当日は、以下の4名の方が参加しておられた。

・児島一裕さん:1956年兵庫県生まれ。小学校5年生で登校拒否になり、小学校卒業までの1年10カ月、児童院に入所していた。その後、1985年にフリースクール地球学校を設立。愛称はうーたん。(写真左から2番目)

・Aさん(男性):1962年大阪市生まれ。小学校4年生から5年生にかけて児童院に入所していた。

・森脇涼美さん:1956年兵庫県生まれ。小学校をほとんど行かず、6年生終了時に原級留置となり、その後の1年間を児童院で過ごした。(写真一番右)

・Bさん(女性):1955年兵庫県生まれ。登校拒否の経験はないが、小学校5年生のとき(1966年)に児童院に入所し、1年を過ごした。

◎情緒障害児短期治療施設

1961年の児童福祉法改正で定められた施設(開設は1962年〜)。当初は学校恐怖症(不登校)や年少非行児童のメンタルケアなどを目的とし、12歳未満を対象としていた。しかし、近年は児童虐待への対応が求められるようになり、現在は在籍児童の7割以上を被虐待児が占める。また、約3割が広汎性発達障害の児童となっている。現在は全国に45施設できている。2016年の児童福祉法改正で、2016年4月より児童心理治療施設と名称変更された。


インタビュー日時:2017年2月19日
聞き手:貴戸理恵、山下耕平
場 所:竹渕さんが入所されている老人ホーム(大阪府堺市)
記事編集・写真撮影:山下耕平
記事公開日:2017年5月11日
--------------------------------------------------------------------------------
→PDF(組版データ)をダウンロード  18futoko50takebuchi.jpg
--------------------------------------------------------------------------------
〈テキスト本文〉

貴戸 今日はよろしくお願いします。滝川一廣先生(本プロジェクト・インタビュー#06参照)のご著書『学校へ行く意味・休む意味』で竹渕先生のことを知って、ぜひ情緒障害児短期治療施設での実際をうかがいたいと思い、インタビューをお願いした次第です。

竹渕 情緒障害児短期治療施設(以下、情短施設)は、1962年に児童福祉法の改正施行で認められた施設で、当初は岡山県立津島児童学院、静岡県立吉原林間学園、大阪市立児童院の3カ所でした。どの施設も、施設長は児童精神科医で、大阪市立児童院の施設長は林修三先生でした。当時、林先生は児童相談所の所長もしていました。フランスへ視察に行かれて、そこで情緒障害というものを勉強して日本に概念を持ち帰って、厚生省(当時)で勉強会を開いて、児童福祉法が改正されて、情短施設がつくられたという経緯だったと思います。私は、1962年の開設直後から、定年になる1989年までの27年間、児童指導員として勤めていました。

貴戸 まずは竹渕先生の個人史からうかがいたいのですが、情短施設に勤め始めるまでの経緯を教えてください。つづきを読む
【インタビュー:施設関係の最新記事】
posted by 不登校新聞社 at 09:52| Comment(0) | インタビュー:施設関係

2017年05月10日

#17 若林実さん

walabayashi.jpg
(わかばやし・みのる)
1937年、神奈川県横浜市生まれ。1944年より3年間、佐渡島に疎開。田園生活を味わう。1968年、横浜市立大学大学院(小児科専攻)修了。医学博士。同年社会福祉法人国際親善病院小児科医長として赴任、私立の児童福祉施設横浜家庭学園嘱託医兼任、いわゆる非行少女たちと出会う機会をもつ。著書に『エジソンも不登校児だった』『アインシュタインも学校嫌いだった』(いずれも筑摩書房)など。(元)小児心身医学会評議員。

インタビュー日時:2016年11月17日
聞き手:奥地圭子、関川ゆう子、石林正男
場 所:横浜家庭学園
写真撮影:石林正男
記事公開日:2017年5月10日
--------------------------------------------------------------------------------
→PDF(組版データ)をダウンロード  17futoko50wakabayashi.jpg
--------------------------------------------------------------------------------

〈テキスト本文〉

奥地 今日は、横浜家庭学園にてインタビューさせていただくことになりました。いまは、ここにお勤めなんでしょうか。

若林 週に1回、医務室に来ています。学校で言えば保健室の養護の先生みたいなものですね。カゼ薬や胃薬を出したり、場合によっては病院を紹介したりしています。毎回、かならず2〜3人は来ます。もう30年ぐらいの関わりになります。国際親善病院に勤めていたときも、夜に来ていました。横浜家庭学園創始者の有馬四郎助氏(1864―1934)のお孫さんにあたる、亡き有馬嗣郎氏に依頼されて来るようになったのですが、有馬さんは「何もしなくてもいい、お説教したりしなくてもいい。話し相手になってくれればいい」と言っていました。


●横浜家庭学園は

奥地 横浜家庭学園について、教えてください。

若林 横浜家庭学園は、学校教育から外れた、いわば非行の少女たちをあずかっています。制度上は、現在は児童自立支援施設になっています。
 この学園は、有馬四郎助が1906年に幼年保護会を設立したところから始まっています。それまでは、少年でも大人と同じ監獄に入れられていたそうです。有馬四郎助は、クリスチャンで刑務官をしていた人で、かつては教科書にも載っていました。関東大震災のとき、有馬が所長をしていた監獄が全壊したそうです。でも、有馬に恩義を感じていた受刑者は、自分たちで自警団をつくって、ひとりの逃走者も出さなかったそうです。
 もうひとり、留岡幸助(1864―1934)が1899年に東京家庭学校を設立していますが、留岡が「男は俺があずかる」と言って、1914年に北海道に分校をつくったのが、北海道家庭学校の始まりです。北海道家庭学校では、札付きの子どもたちばかりで農作業をやって、鎌とか短刀も持たせるのに、それを使った刃傷沙汰は、これまで一つもないそうです。心が穏やかになるのでしょう。
 横浜家庭学園に見学に来る方も、「とても非行をしたとは思えない」と言って、びっくりすることが多いですね。

奥地 フリースクールでも、見学に来る人から「この子たち、ごくふつうの子ですよね。不登校したとは思えない」と言われてきました。横浜家庭学園は、何人くらいの子どもがいらっしゃるんですか。

若林 平均して20人ぐらいですが、今後は、もう少し大きくなる予定です。人里離れた場所がいいというので、丘の上に建てられたのですが、子どもたちは「こんなところはイヤだ」と言って、ときどき脱走することもありました。いまは脱走する子はいないですが、脱走するということは、教育のほうが悪いんです。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 14:28| Comment(0) | インタビュー:医療関係

2017年04月29日

#16 清水將之さん

shimizu.jpg

(しみず・まさゆき)
1934年、兵庫県芦屋市生まれ。1960年、大阪大学医学部卒業、1965年、同大学院修了。医学博士。大阪府立中宮病院、大阪大学医学部精神医学教室、名古屋市立大学医学部精神科助教授を経て、三重県立こども心療センターあすなろ学園園長(現在は三重県特別顧問)、日本子どもの未来研究所所長、関西国際大学名誉教授、神戸レインボーハウス顧問。著書に『青い鳥症候群』(弘文堂1983)、『思春期のこころ』(NHKブックス1996)、『新訂 子ども臨床』(日本評論社2009)、『養護教諭の精神保健術―子どものこころと育ちを支える技』(北大路書房2013)など多数。

インタビュー日時:2017年1月30日
聞き手:山下耕平、田中佑弥
場 所:ご自宅マンションの談話室(神戸市)
記事編集・写真撮影:山下耕平
記事公開日:2017年4月29日
--------------------------------------------------------------------------------
→PDF(組版データ)をダウンロード  16futoko50shimizu.jpg
--------------------------------------------------------------------------------

〈テキスト本文〉

山下 今日は、長期的な視野から、不登校についてお話しいただけるということですが。

清水 学校がない時代には不登校はあり得なかったですね。まずは、そこから考えてみたいと思います。
 近代に入るまでの時代は、ほとんどの民衆は農漁民で、子どもは農作業や浜仕事のできる年齢になれば、親と作業をともにしながら、大人になっていったわけです。
 701年に大宝律令が施行され、都に大学が、地方主要都市に国学が設置されました。大学は貴族のため、国学は郡司の子息のための学校です。いわば支配層の子弟のための、公務員養成所のようなもので、おもに儒教を教えていました。
 平安時代に入って、821年、京都に勧学院ができます。藤原冬嗣が建てたもので、これは一般貴族にも開かれた寄宿舎制の学校だったと言えます。
 さらに829年になると、空海が綜藝種智院を開きます。これは身分貧富にかかわりなく、勉強したい人は誰でも来ていいという学校だったんです。学費は無料で、教員にも生徒にも給食まで供されていたそうです。空海は教育論も書いていて、その写本が残っています。儒教だけではなく、仏教、道教など、あらゆる思想・学芸を総合的に学ぶことのできる場だったようです。しかし、綜藝種智院は空海が他界して4年後に閉鎖されてしまいます。もちろん、史料もほとんど残ってないから、実態はわかりません。
つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 11:50| Comment(0) | インタビュー:医療関係