2018年05月30日

#40 中澤淳さん

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(なかざわ・じゅん)
1974年、大阪府茨木市生まれ。小学生のとき、大阪から関東へ転校し、その後、小学校4年生より学校に行かなくなる。小学校6年生より東京シューレに通い、東京シューレ通信の編集長、海外を含めた各地への合宿企画など、さまざまな活動に関わる。18歳で東京シューレを退会後、アルバイトをしながら海外各地をまわった。フランス語の専門学校へ通い、フランスへも語学留学。そうした経験を活かし、帰国後に旅行会社に就職。現在は、ふたりの子どもの父親でもある。

インタビュー日時:2018年3月13日
聞き手:奥地圭子、木村砂織
場 所:東京シューレ葛飾中学校
写真撮影:木村砂織

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〈テキスト本文〉

奥地 今日はイランから帰国された直後とのことで、お疲れのところすみません。HISという旅行会社に勤務しておられるんですよね。いまは、どういう部署におられるんでしょう。

中澤 海外事業戦略本部です。当社の海外ビジネスの管理をおもに担当する部署です。私は、おもに中近東とアフリカ地域を担当しています。既存店舗のケアもしますし、既存店舗がないところに行って、ビジネスの種がないかも探しますし、そういう仕事ですね。

奥地 何語で仕事してるんですか?

中澤 今回は英語でした。イランの方は英語が上手なんですよ。アメリカから経済制裁されてるのに、アメリカ人みたいな英語を話すんです。

奥地 中澤さんはフランス語を勉強してきたんですよね? 英語もどこかで学ばれたんですか?

中澤 フランス語は専門学校で勉強したんですけど、フランス語の通じる国って、地球上で6分の1ぐらいしかないんですよ。英語は、シューレで勉強したぐらいです。いまでも、当時のスタッフから教えてもらった「I am here,you are there」って思い出します。なんか、棒人間みたいなイラストを描いたテキストでしたね。

奥地 オリジナルの教材を使ってたからね。それでも、政府の方に会ったり、銀行関係者に会ったりして、ちゃんと通じるわけね(笑)。

中澤 いちおう、なんとか。ただ、銀行の方が言ってることはよくわからないんですよね。自分の業界だったら、言葉だけじゃなくて文脈でわかるんですけど。だから、商社とかで海外で活躍されている方と比べたら、私の英語力なんて笑われちゃうぐらいのレベルです。まあ、要するに気合いと根性ですね(笑)。こうしたいという熱意があれば、語学力の不足はなんとかなります。なぜなら、こうしたいと思っていることがあれば、いろいろ話しているうちに「あなたは、そういうことがしたいわけね」って話になるんです。逆に言えば、いくら語学ができても、何をしたいというコンテンツのない人は、話が進まないですね。

奥地 そのあたりは、子どものころから一貫している気がしますね。

中澤 そうですかね、自分ではわからないです。自分が中・高生の年代のときにどうだったかは、もはやわからないです。

奥地 私らのほうが感じるのかもしれないね(笑)。不登校したのは小学校のときでしたね。

中澤 もはや自分がいつ不登校したかも、よく思い出せなくなってます。小学校4年生か5年生だったと思うんですけど……。

奥地 1985年、東京シューレが誕生した年に、中澤さんは小学校5年生で、お父さんといっしょに来たんですよね。そのころはどこに住んでましたか?

中澤 千葉県松戸市の六実です。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 18:12| Comment(0) | 当事者

2018年05月08日

#39 駒ア亮太さん

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(こまざき・りょうた)
1944年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学経済学部卒業後、会社勤めをしたものの、すぐに辞めて、高校教員に。洲本高校、茅ヶ崎高校の全日制を経て、1983年から湘南高校の通信制に(1996年まで)。通信制高校では、脱学校の思想と重ね合わせて活動していた。三吉クリニック(藤沢市)との出会いから、カフェ・ドゥ・そーじゃんという居場所にも関わる。1996年から2005年まで、茅ヶ崎高校の定時制で教員をしていた。

インタビュー日時:2018年3月21日
聞き手:栗田隆子、山下耕平
場 所:磯里(神奈川県大磯町)
写真撮影:山下耕平

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〈テキスト本文〉

栗田 おひさしぶりです。私は89年から湘南高校の通信制に通っていて、当時、駒アさんの授業も取ってました。ですから、お会いするのは30年ぶりぐらいになります。まずは、駒アさんの子ども時代のことからうかがっていきたいと思います。お生まれは神奈川県ですよね。

駒ア そうです。1944年、鎌倉生まれです。生まれて間もないころ、母親の実家を頼り兵庫県西宮市に移り住んで、そこで空襲に遭って、父親は焼夷弾が屋根にかぶったところをたたき落としたと言ってました。その後、長野県に疎開したんですが、僕は乳飲み子で、おふくろは乳が出ないので、代わりに杏の実を拾って、やっていたと言ってました。敗戦で、また神奈川にもどってきたんですね。

栗田 その後、お父さんは、単身ブラジルへ渡ったそうですね。

駒ア 僕が5歳のころ、起業してブラジルで一旗揚げると言ってね、幼い子ども3人と妻を残して行っちゃったんです。でも、いい面もあってね、父親は日本的な親の権威を持ってなかったんです。そのうえ、いなくなったものから、僕は父親の権威を知らずにのびのび育ったんですね。いつだったか「日本は自由ではないけど、君たちは自由にやりなさい」と言ってました。
 昔、同僚から「あなたには男親の影がないね」と言われたこともあります。まあ、プラス・マイナス両面あるんだろうけどね。

山下 ご苦労もあったのでしょうね。

駒ア 父親は次男だったんですが、どういうわけか、父方の祖父のめんどうを母がみることになって、家を売り払って、借家生活で、祖父といっしょに暮らすことになったんです。舅で元校長のこのじいさんが身勝手で横暴でね。
 それと、僕は小学校を途中で転校してるんですが、転校後の男性教員(後年、校長に)が、暴力的・差別的でね。そういう経験から、男性の横暴とか暴力に敏感になりましたね。それはプラス面かな。

栗田 転校前は、湘南学園に通われていたそうですね。湘南学園は私立学校で、何というか、のびのびしたところですよね。

駒ア 4年生までは湘南学園に通ってました。その後、公立の御成小学校(鎌倉市)に転校したんです。そこで何が変わったかというと、いろんな子がいたんですね。当時、戦災孤児や母子家庭で貧しい家の子のめんどうをみる施設のことを「保育園」と言ってたんですが、「保育園」から学校に通ってきている子が、クラスに4〜5人ぐらいいました。
 同じクラスに、貧しい子もいれば、お金持ちの坊ちゃんもいる。金持ちの家の子は、ピアノやお絵描きや習字をしていたりね。成績もいい。そこには露骨な格差があったし、差別もあった。でも、恥ずかしいことに、当時の僕は、坊ちゃんの仲間に入りたかったんだよね。

栗田 転校後の学校の暴力的な先生というのは、どういう感じだったんでしょう。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 07:02| Comment(0) | 学校関係

2018年05月04日

#38 倉地透さん

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(くらち・とおる)
1971年、東京都練馬区生まれ。中学校2年生より登校拒否。中2の終わりごろから17歳まで東京シューレに在籍。18歳から縫製工場で働き、20歳で結婚。転職して工務店で働きながら専門学校に通い、27歳で二級建築士の免許を取得。その後、独立して、2008年に建築会社マッスルホームを設立、取締役社長をしている。ふたりの子どもの父でもあって、お子さんたちとは趣味のキックボクシングを楽しんでいる。
株式会社マッスルホーム http://www.muscle-home.com/

インタビュー日時:2018年3月1日
聞き手:奥地圭子
場 所:東京シューレ王子
写真撮影:佐藤信一

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〈テキスト本文〉

奥地 いまは、文部科学省が「不登校は問題行動と判断してはならない」と全国に通知を出す時代になりました。やっと、そこまで来たんです。でも、非常に厳しい時代もあって、とくに80年代、シューレができたころはたいへんでしたね。学校に行かない子たちが、どういう対応を受けてきたのか、そういう話をこのプロジェクトに入れたいと思って、透くんの話は絶対に入れたいと思っていました。だまされて、北海道までつれていかれちゃったわけですからね。

倉地 戸塚ヨットスクールなんかが、ふつうにまかり通ってたような時代でしたからね。

奥地 まず、簡単にプロフィールを聞きたいんだけど、いまは46歳で、中2から不登校だったんですよね?

倉地 中2の1学期からで、練馬区の中学校でした。東京シューレに入ったのは中2の終わりごろだったと思います。中3のあいだは、けっこうシューレに行ってましたね。

奥地 シューレを辞めたのはいつごろでしたかね。そのころは、まだ高等部がはっきりと確立していたわけじゃないんですよね。いまは高等部もあるんだけどね。

倉地 高校に入ったときにシューレは1回辞めて、でも1週間でダメになって、またシューレに戻ってきて、アルバイトしながら通ってましたね。

奥地 じゃあ、16〜17歳のころに退会してるのかな?

倉地 仕事を始めたからだったと思います。18歳の4月、ふつうだったら高校卒業年齢のときから、知り合いの縫製工場で働き始めました。親がアパレル関係で、婦人服の縫製をやってたんで、それを継ぐって名目で、親の会社じゃないところで働き始めたんです。

奥地 それで20歳で結婚だっけ?

倉地 そうです。その会社にいたんですね、嫁は。

奥地 でも、その前にお母さんが亡くなられて……。

倉地 お袋が亡くなることによって、結婚が早まっちゃたような流れなんですよね。結婚したときは、まだ仕事もちゃんと定まってなかったんです。会社には、親父の仕事を継ぐってことで入社して、でも、お袋が亡くなったことによって、親父がやる気をなくしちゃって、自分の会社もうまくいかなくなって、借金も抱えて、がくっときちゃったんですよね。
 ずっと何もしなくなっちゃったわけじゃないんだけど、家賃も滞納していて、いっしょに住んでたんだけど、そのころの給料じゃ、僕も、とてもまだ独立できるような状況じゃなかったし、このあたりから親父ともうまくいかなくなっちゃって……。それで、親父も「透は好きなことをやりなさい」と言って、23歳のときに工務店に入ったんですね。

奥地 23歳で工務店就職で、それで夜は専門学校に通ったんだっけ?

倉地 そうです。夜と日曜日に通って、そこで二級建築士の資格を取りました。それが27歳のときです。

奥地 仕事と勉強でたいへんでしたね。それで、工務店でしばらくやっていって、30歳のときに自分で家を建てるんだよね?

倉地 そうです。その後、独立して、株式会社マッスルホームの取締役社長をやっています。会社を興したんです。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 17:12| Comment(3) | 当事者