2017年09月09日

#24 中沢たえ子さん

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(なかざわ・たえこ)児童精神科医。1926年、兵庫県神戸市生まれ。旧姓・鷲見たえ子。戦争中に東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)に入学し、戦後に卒業。1950年より、名古屋大学医学部精神医学教室にて児童精神医学を専攻。最先端を知りたいと思い、アメリカ行きを決心。1955年から3年間、マサチューセッツ州ボストンにて、当時アメリカで主流だった精神分析学および幼児のplay therapyを修める。帰国後、国立精神衛生研究所(現在の国立精神・神経医療研究センター)に勤務し、1960年に論文「学校恐怖症の研究」を発表。この論文は注目を集め、今なお不登校の初期の論文として引用されることが多い。結婚後の1962年、再度渡米し、ロサンゼルスで障害児保育を学ぶ。帰国後は児童精神科のクリニックを開き、その草分けとなる。2016年まで院長を務める。著書に『子どもの心の臨床 心の問題の発生予防のために』(岩崎学術出版社1992)、『障害児の心の臨床 知的・情緒的障害児とその親の心』(岩崎学術出版社2001)など。翻訳書にアンナ・フロイト『家庭なき幼児たち : ハムステッド保育所報告 : 1939-1945 上・下』 (岩崎学術出版社1982)など多数。

インタビュー日時:2017年7月7日
聞き手:奥地圭子、朝倉景樹
場 所:中沢たえ子さんご自宅(神奈川県藤沢市)
写真撮影:朝倉景樹、奥地圭子
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〈テキスト本文〉

●児童精神医学の研究を始めたころ

奥地 どうして児童精神医学を学ぼうと思われたのでしょうか。

中沢 精神医学を学び始めたときは、とくに子どもをとは思ってはいませんでした。ただ、従来の精神医学が人間をきちんと見ていない、そこを見なければという思いはありました。出会いとつながりのなかで、子どもを診るようになったということでしょうか。

奥地 そのなかで不登校の子どもと出会ったのでしょうか。

中沢 そのころは、まだ登校拒否なんてことは、まったく話題になっていませんでした。

奥地 そうですよね。

中沢 思い返せば、1例だけあったように思いますが、まだ、そういう相談もない時代でした。そのころのことで言うと、当時、ずっと診ていたKちゃんのことがありました。お世話になっていた村松常雄(*1)先生からレオ・カナー(精神科医/1894―1981)が自閉症について書いた論文を勧められて読んだのですが、子どもをよく見て書いてありました。その論文とKちゃんが、マッチしていたんですね。それで、村松先生が、「何でもいいから九州の学会へ出してみろよ」と言われて。私はぜんぜん自信がなかったんですけれども、「困ったら僕が何とか応援するよ」っておっしゃるので、1952年の日本精神神経学会で、自閉症の第一例を報告しました。それをきっかけに、私は、子どもにどんどんのめり込んでいったんですね。

朝倉 報告の反響はいかがでしたか。

中沢 「鷲見さん、早く結婚して、自閉症の子どもをつくれよ」って言われました。

朝倉 まあ、なんとごあいさつな。
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posted by 不登校新聞社 at 08:56| Comment(0) | 医療関係

2017年08月29日

#23 児島一裕さん

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(こじま・かずひろ)
1956年兵庫県生まれ。小学校5年生で登校拒否になり、1966年から小学校卒業までの1年10カ月、大阪市立児童院(情緒障害児短期治療施設)に入所していた。大学時代にアメリカに留学、その後、日本語学校の教員を1年間勤める。アメリカ各地のフリースクールをまわり、1985年、兵庫県高砂市でフリースクール地球学校を設立。1999年に地球学校を閉じて、現在は、GHBセンター(グローバル・ヒューマン・ブリッジ・センター)代表、000グローバルビジョン代表、地球大学(NPO法人000 PAF GLOBAL UNIVER-CITY)プロジェクト会員など。愛称はうーたん。

インタビュー日時:2017 年5 月21 日
聞き手:山下耕平、山田潤
場 所:飲食店(大阪府堺市)
写真撮影:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下 児島さんにお話をうかがうのは、このプロジェクトのインタビューで2回目になります。大阪市立児童院(情緒障害児短期治療施設)で生活指導員をされていた竹渕陽三さんにコンタクトをとった際、偶然にも、児島さんに行き当たったのでした。児島さんは50年ほど前に児童院に入所されていた経験があって、いまも竹渕さんを囲んで、当時の入所者で集まっておられるということでした。竹渕さんへのインタビューでは、ご本人だけではなく、児島さん含む当時の入所者4名の方にお話をうかがうことができ、貴重な証言をいただいたと思います(#18竹渕陽三さんと竹の子会のみなさん参照)。今回は、あらためて、情短施設での経験だけではなく、フリースクール地球学校を始められた経緯など、いろいろお話をうかがえればと思っています。

児島 ほんとうに、偶然でしたね。児童院での経験は、自分にとって原点となる経験でしたので、いい機会だったと思います。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 15:49| Comment(0) | 居場所・フリースクール関係

2017年07月07日

#22 北村小夜さん

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(きたむら・さよ)
1925年、福岡県久留米市生まれ。1950年〜1986年まで都内の小・中学校で教員(そのうち1965年から86年の退職まで中学校で特殊学級担任)。子どもたちとのつき合いのなかから、子どもを分けてはならないことに気づき、共に学ぶ地域の学校づくりを目指して、障害児を普通学校へ・全国連絡会世話人などで活動してきた。1990年〜1991年、中国の長春師範学院で日本語を教える。著書に『一緒がいいならなぜ分けた』(現代書館1987)、『再び住んでみた中国』(現代書館1992)、『能力主義と教育基本法「改正」』 (現代書館2004)、『戦争は教室から始まる』(現代書館2008)など。

インタビュー日時:2017年6月5日
聞き手:山下耕平
場 所:北村小夜さんご自宅(東京都大田区)
写真撮影:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下 北村さんは、お生まれは何年になりますでしょうか。

北村 私は1925年、福岡県久留米市に生まれました。92歳なので、明日には死んでるかもしれません(笑)。私が生まれた年に治安維持法が公布されて、その後、どんどん戦争に向かっていって、20歳のときに敗戦になりましたが、戦後の混乱期は相当なものでした。食べ物はないし、多くの人が死んでいるか生きているかわからなくて、人さがしをしていて、進駐軍の検閲も厳しくて……。
 来年が明治維新から150年ということですが、大ざっぱに言えば、明治維新から敗戦までが70年ちょっと、敗戦後から現在までが70年ちょっとですね。いまは、私が子どものころ、戦争前の状況とよく似ています。ちょうど少し前に震災もあって、偶然かもしれないけど、いろんなことが重なる。戦後、こんなに物騒な時代はなかったと思います。

山下 なるほど、たしかに符合することが多いように思いますね。まずは、ご自身の子ども時代の、学校との関係からうかがいたいのですが、小学校に入学されたのは何年になりますでしょうか?つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 13:40| Comment(1) | 学校関係