2018年02月19日

#33 小林剛さん

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(こばやし・つよし)
1934年、長野県生まれ。北海道大学大学院教育学研究科修士課程修了。北海道および長野県の公立高校国語科教諭を経て、福井大学教育学部教授、武庫川女子大学大学院臨床教育学研究科長を歴任。兵庫県立神出学園の設立計画に関わり、開校から現在に至るまで学園長を務めている。

聞き手:田中佑弥、山下耕平
記事編集:田中佑弥/写真撮影:山下耕平
インタビュー日時:2017年12月28日
場所:兵庫県立神出学園
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〈テキスト本文〉

田中 インタビューの機会をいただき、ありがとうございます。神出学園については後ほどくわしくうかがいたいと思いますが、まずはご自身がどんな子どもであったかについて教えてください。

小林 出身は長野県の戸隠村です。現在は長野市に合併しちゃったんですが、長いことずっと村で、めずらしく村を残していたところなんですね。

山下 おそばで有名ですよね。

小林 そうそう。いまや観光地になりましたね。子ども時代はまさに信州の山のなかで育ちました。私はもともと、それほど体が丈夫ではなかったんですね。学校を休むことも多かったし、まわりの大人にずいぶん世話になることもあって、少年時代はそれほど活発に動きまわる子どもではなかったんです。したがって、学校のなかでも、どちらかというと目立たない、静かな存在だったと自分では思っています。活発に動けないので、学校の図書室に通って本をたくさん読んだりして、自分の体と心に合った子ども時代を自分なりにつくりだしていったのかなと思います。

田中 学校を休むことが多かったんですね。

小林 カゼをひくことが多かったんでね。学校には行きたいと思うけれども、体がそんな調子だから行けない。学校はきらいじゃないし、先生もとてもいい先生だったので、休むことにはたいへん罪悪感がありました。

田中 神出学園に来てる子たちにも、体調不良は多いのではないでしょうか?

小林 多いですね。

田中 おなかが痛くなる子とか、そういうのはわかるというか……。

小林 よくわかるんです。だから、僕の原点とつなぎ合わせて、子どもの側に立ってものを考えられるんですね。ここの学園長になったことは、僕の少年時代の生い立ちとつながっているような気がするんです。
 戸隠村は貧しい農家が多くて、うちも、ごたぶんに漏れず貧しい農家でありました。当時は、子どもというのは働き手として期待されていたんですが、僕はそんなに丈夫じゃないし、兄貴がいましたので、親が僕に労働を課すことはあまりなかったです。どちらかというと母親が保護してくれて、愛情たっぷりに育てられました。母親は、父親が非常に厳しいぶん――無償の愛という言葉があたるんじゃないかと思うんですが――ひたすら子どもをかわいがってくれました。「愛すること」「信じること」「待つこと」という3つのキーワードが僕の人生論で、これは僕の一生に関わってきたと思うんですけれども、いまでも神出学園のなかで大切にしています。


●北海道家庭学校との出会い

小林 僕は、新制中学の1期生だったんです。体があんまり丈夫じゃなかったこともあって、担任の先生が非常に目をかけてくれました。予科練あがりの若い先生でした。先生の下宿が僕の家の近くだったこともあり、「小林くん、今日は僕んとこへちょっと遊びに来ないか?」って、よく誘ってくれました。それで、おふくろがつくってくれた牡丹餅を持って先生のところへ行くようになりました。戦争というものがどんなにひどかったかっていう話を先生から聞きました。
 また、先生は(北海道大学の前身である札幌農学校の)クラーク博士をとても尊敬していたので、「小林くんは北海道大学に行って勉強しなさい」と勧めてくれました。当時、北海道っていうのは長野からすれば外国みたいに思われていました。だって、昭和20年代の終わりですからね。でも、非常に尊敬していた先生に盛んに言われて、期待に応えたいという思いもあって、長野高校に進学し、1年浪人して北海道大学に入りました。最初2年間は一般教養で、3年から学部に移るわけですが、僕は先生からの影響をあちこちで受けていたので教育学部に行き、砂澤喜代次先生のゼミに入りました。
 砂澤先生が「小林くん、いいところがあるから、いっしょに行こうぜ」って言うから、「どこへ行くんですか?」ってきいたら、「北海道家庭学校(*1)っていうのがあるんだよ。これはすごい学校だよ」と言うんですね。3年生の終わりぐらいだったと思いますが、先生と遠軽にある北海道家庭学校に行きました。谷昌恒先生(*2)が「よくこんな遠くまで来てくれた」って握手をしてくださってね。もう感動しました。挫折した子どもたちが、どのように自分の人生や青春を取りもどしていけるのかということについて、家庭学校からたくさんのヒントをもらいました。大学院では、もっぱら家庭学校に何回も通いました。

山下 北海道家庭学校の印象はどうだったんでしょうか?

小林 家庭学校は小舎制で、それこそ生活は家庭をなしているわけです。12人ぐらいで生活共同体をつくって、寝起きをともにする先生がいて、それがあそこの教育のやり方だったんですね。子どもたちはそこで自分をふり返り、そして自分の人生というものを考え、青春を楽しみ、自分の生き方を考える。こういう教育の場は学校とはちがって、すごい力を持っているという印象を持ちましたね。

山下 それは、先ほどおっしゃった「無償の愛」というか、家庭をベースにしていることが大きかったのでしょうか?

小林 大きかったね、ほんとうに。やっぱり家庭学校に来てる子どもたちは、愛に飢えている子どもたちなんでね。いかに愛されることが不足しているのかってことは、もう肌で感じましたね。親との関係を調整し、再構築していくことで、親は穏やかになっていくし、子どもがほんとうに変わっていくんですよ。これには心から感動して、これが教育なんじゃないかと思いました。規則や決まりで非行を立て直そうとするのは、子どもを追い込んで、かえってダメにするんです。やっぱり受けとめて愛してやることが大事で、これが教育の原点で基本だっていうことを、まさに実感しました。だから、神出学園のスタッフに話すときも、常に家庭学校のあり方を念頭に置いています。

田中 家庭学校では農作業をするそうですが、先生もいっしょにされたんですか?

小林 そうそう。もう汗を流して、何でもやりました。

山下 北海道家庭学校で出会った子どもたちは、非行の子どもが多かったのでしょうか?

小林 そうです。8割ぐらいが窃盗や暴力ですね。当時、不登校はまだ社会問題ではなく、学校から弾き出されて、非行化していく子どもが一番大きな問題だったんですね。
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2018年02月06日

#32 山口由美子さん

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(やまぐち・ゆみこ)
1949 年佐賀県生まれ。3 人の子どもの母親。2000 年5 月、西鉄バスジャック事件に遭遇し、全身10 ヵ所以上も斬りつけられ、重傷を負わされた。事件で亡くなられた塚本達子さんとは、塚本さんの主宰していた幼児室を通しての知り合いであり、事件当日は、塚本さんといっしょにコンサートに行く途中だった。山口さんは、事件後、佐賀市内で親の会「ほっとケーキ」や子どもの居場所「ハッピービバーク」の活動を始め、現在も続けている。2015 年3 月、九州大学大学院統合新領域学府ユーザー感性学修士課程修了。

インタビュー日時:2016 年10月29日
聞き手:奥地圭子、山口幸子、木村砂織
場 所:飲食店(福岡市)
写真撮影:木村砂織
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〈テキスト本文〉

●いじめからの不登校

奥地 今日はよろしくお願いします。山口さんのお子さんの不登校はいつからですか?

山口 最初は1995年で、娘が小学校5年生のときに行きしぶり、6年生のときに1カ月だけ行けなくなったことがありました。中学校はほとんど行きませんでした。でも、小学校のときは先生と話し合いをして、クラスの雰囲気が変わったこともあり、学校にもどれたんですね。

奥地 小学校5年生までは何ごともなく通えていたのか、それとも何か悩みながら通っていたのか、そのあたりはどうだったんでしょう。

山口 それまで、とくに変わったことはなかったです。5年生のときに担任の先生が産休に入って、臨時採用の先生になったんですが、その先生に娘は気に入られたようで、そのためにクラス全員から、いやな感じに思われていたようです。本人も非常に困っていました。よく放課後に「お手伝いしてくれ」と頼まれて、私には「早く帰りたいのに」と言っていました。先生とクラスの子の関係が悪くて、そのクラスは学級崩壊状態でした。

奥地 それがもとで?

山口 そう、子どもたちの先生に対する抗議ですかね。その臨時採用の先生は12月までだったので、その後2カ月間はベテランの先生をつけてくださったんです。そうしたらクラスのようすが変わって、落ち着いてきました。

奥地 やり方が上手だったってこと?

山口 そうそう。その後、3月に産休をとっていた担任の先生がもどってこられたんですね。その先生は子どもが大好きな先生で、子どもたちがイキイキと変わっていったんです。6年生も持ち上がる予定だったので「よかったね」と話していたら、始業式の日、娘が「先生の替わったとんさった」と言って、しょんぼりして帰ってきました。私が、あわててて先生に電話したら、「実はまた妊娠したので、6年生の担任は降ろされてしまいました」と返事がありました。そこで「おめでとうございます」って言うしかなくて……。それで、新しい担任を迎えたんですが、またクラスが荒れ出したんです。5年生で不登校になりそうになったとき、クラスの役員の方に相談していたこともあり、6年生は私がPTAの役員をしますと言って、引き受けていたんです。

奥地 何とかしようと思って?

山口 そうですね。保護者会を開いたら、親たちも子どもから「授業がいっちょんおもしろなか(いっこうにおもしろくない)」と聞いていて、クラスが荒れていることは知っていました。そうこうしているうちに、娘が「行きたくない」って言うので、「もう行かんでいいよ」と言いました。私は、ほかの親たちとも先生ともつながっていたので、安心して休ませることができました。
 休み始めてからは、昼夜逆転あり何でもありで、行きたいところには、私の時間の許すかぎり自由に連れて行ってました。担任の先生もときどき来てくださったんですが、娘に「先生が来られたけど、どうする?」と聞いて、「今日は会いたくない」と言うときは、お断りするようにしていました。そのうち、「会ってもいいよ」と本人が言ってからは、先生と会うようになって、その際に「そろそろ学校に来てみたら?」と言われて学校に行き始めました。そのとき、「私は、いじめられてて、心が針みたいに細くなっていた。でも、もう太ったから大丈夫」と言って登校し、「学校って、楽しいところだったんだね」とも言っていました。以前とちがって、学校やクラスの雰囲気が変わっていたんですね。

奥地 それは何月ぐらいのことですか?

山口 2学期の9月ごろだったと思います。

奥地 なるほど。中学校は、そこの小学校の子が行くところだったんですか?

山口 そうです。ふたつの小学校の生徒が混ざるところです。中学校は最初から、「行きたくないな〜」って言ってました。「制服いやだな〜。校則もいっぱいあるみたいだな〜」って言いながら学校に行って、学級委員になって帰ってきたんです。入学式の日に委員を決めるんですが、生徒がみんな下を向いて黙っているので、娘は「早く帰りたいから、もう決めてきたよ」って言っていました。

奥地 ある種、合理的ですね(笑)。

山口 でも、ほかに、やりたい子がいたようなんですね。それでまた、そんな子からいじめが始まって、そのようすを見て不登校になった男の子がふたりいたようです。それぐらい、たいへんだったというのは、あとで知ったんですが。
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posted by 不登校新聞社 at 17:43| Comment(1) | 親/親の会

2018年01月25日

#31 内田良子さん

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(うちだ・りょうこ)
1942年、朝鮮慶尚南道生まれ。終戦で引き揚げ長野県で育つ。東京女子大学を卒業後、1973年より27年間、佼成病院小児科心理室で心理相談員を務めた。また、1973年から東京都内の複数の保健所でも心理相談員を務め、現在も続けている。1988年から2011年まで23年間、NHKラジオ「子どもと教育電話相談」「子どもの心相談」を担当した。1998年、子ども相談室「モモの部屋」を設立。著書に『カウンセラー良子さんの子育てはなぞとき』『幼い子のくらしとこころQ&A』『登園しぶり 登校しぶり』(いずれもジャパンマシニスト社)など。編著に『子どもたちが語る登校拒否』『親たちが語る登校拒否』(世織書房)。

インタビュー日時:2017 年9月13日
聞き手:山下耕平
場 所:モモの部屋(東京都杉並区)

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〈テキスト本文〉

山下 まずは、ご自身の子ども時代のことからうかがっていきたいと思います。内田さんは、戦前、植民地時代の朝鮮半島でお生まれということでしたね。

内田 現在の韓国の慶尚南道です。父が現地の日本人学校(女学校)の教員をしていたんですね。私は1942年生まれなので、2歳半で終戦を迎えて引き揚げてきました。ですから、当時のことは記憶には残ってません。引き揚げ先は、父の郷里である長野県富士見町立沢でした。八ヶ岳のふもとで、小学校4年生まで住んでいました。

山下 このプロジェクトのインタビューでも、幾人もの方から引き揚げのご苦労の話をうかがっています。ご苦労も多かったのではないでしょうか。

内田 とくに母はたいへんな思いをしたそうです。終戦時、一番上の兄が8歳で、姉が5歳、私が2歳で、おなかには弟がいたんです。しかし、父は戦争の最後の状況のなかで応召されてしまっていた。引き揚げの途中で赤ちゃんを産んでしまったらつれて帰れないだろうし、3人の子どもをつれての引き揚げは困難をきわめると思って、母は駐屯地に無断で入り込んで、父を返してくれと司令部に直訴したそうです。父は帰ることを許されて、いっしょに引き揚げることができたんです。ただ、無事に日本にたどりつくかはわからないので、私のリュックには道中の遊び道具と、途中でひとり旅立つことがあってもさびしくないようにと、おひなさまの小道具を入れてくれていたそうです。


●先生の言うことは信じちゃいけない

山下 学校との関係は、どうだったんでしょう。

内田 1948年に小学校に入学しているので、新制学校になって2年目ですね。兄は教科書に墨を塗っているんですが、私のときは新しい教科書になってました。いわば民主化した学校に入ったわけですが、小学校に入るとき、母は「学校に行っても、先生の言うことを信じちゃいけないよ。先生はまちがえることがある。私たちの時代は、学校の先生の言うことを聞いて戦争したのだから」と言いました。
 母自身、子ども時代に学校が好きじゃなかったみたいなんですね。身体が弱かったのと、医者の娘だったこともあって、家庭教師がついて家で過ごすことが多くて、学校にはあまり行ってなかったようです。家で世界文学や日本文学を読みふける、作家志望の文学少女でした。学校を通して上から教えられたのではなく、本から知識を得て教養を身につけた人でした。だから、いざというときも、自分で考えて、自分で判断して行動できたんだと思います。
 子どもたちにも、「先生の言うことは信じないで、自分で考えなさい」と言っていて、子どもながらに緊張感をもって、先生にだまされないように最初から疑ってかかってました(笑)。よく日本の親は「学校に行ったら先生の言うことをききなさい」と言いますよね。しかし、私の場合は逆だったんです。

山下 とくに当時では、そういう親御さんはめずらしかったでしょうね。内田さんご自身も、あまり学校には行ってなかったそうですね。

内田 しょっちゅう休んでました。家から学校まで、子どもの足で歩いて小1時間もかかって、遠かったということもありました。山の中で、とくに冬は雪が深く寒くてたいへんでした。それと、担任が軍隊帰りの若い先生で、何か気に入らないことがあると、すぐ革のスリッパで子ども全員の頭をたたいていた。私自身は、しょっちゅう休んでいたせいで、あまり記憶にないんですが、それもイヤだったと思うんです。頭が痛い、おなかが痛い、下痢をする、吐くということで、体調不良でしょっちゅう休んでました。のちに病院の心理室で出会った子どもたちといっしょで、私は身体で登校拒否をしていたんだと気づきました。
 それと、当時は食べるものがほんとうになくて、私はやせて食も細く、母は「この子は身体の弱い子だから、20歳まで生きられるかわからない」と思っていたそうです。農村だったので、農家は食べ物がある。だけど、私たちは給与生活者で農協に行って買わないといけない。当時、父は県立高校の教員だったんですが、その給料だけではまかなえませんでした。野菜は庭でつくってましたが、主食の米やしょうゆは買わないといけないですし、食べるに事欠いていた。
 そういう状況だったので、具合が悪いというと、すぐ休ませてくれたんです。無医村だったので、具合が悪いから医者に行くということもない。健康保険制度もまだなかったですし、家で寝て治す時代でした。
 母は弟を背負って山に植林に行ったり野良仕事で、私は日がな家にいて、ひとりでお留守番で、庭で草木や動物と遊んだりしていました。それで、そろそろ行かないとまずいなとか、退屈したなと思うと、ちょっと行ってみてはまた休む。そんな感じでした。

山下 どれくらいの割合、休んでいたんですか?

内田 3分の1から半分ぐらいは休んでいたように思います。子どもながらに、半分以上休んだら進級できないかなと思って、ときどきは行ってました。よかったのは、当時はテストがなかったんですね。印刷にお金もかかるし紙もないから、できなかったんです。ですから、どこまでわかってるかも確認されない。しばらく休んでても、その日の授業は、聞いたらわかる。ですから、自分が遅れているとは、まったく思ってなかったんですね。テストがなかったのは、すごくいい時代だったと思います。

山下 新制学校制度になって10年ほどは、学校もずいぶん牧歌的だったそうですね。

内田 体育や理科の授業でも、河原に遊びに行き砂を持ってきて校庭を整地したり、宿題がイナゴをとってくることで、それを集めて売って教材費にしていました。ほんとうに牧歌的だったと思います。それでも私は学校がきらいだったんですが、いまと比べれば、子どもの居場所たりえたんだと思います。
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posted by 不登校新聞社 at 16:27| Comment(0) | 心理関係