2018年10月15日

プロジェクト趣旨・概要

 学校基本調査で「学校嫌い」の統計が開始されたのは1966年。学校を長期欠席する子どもは、学校制度とともに常にいました。しかし、現在につながる「問題」として不登校が社会現象化してきたのは、この統計開始以降とも言えます。この50年、不登校は「問題」であり続けてきました。それは、学校、教育行政、精神科医療、家族のあり方、働き方などが、さまざまに問われてきた「問題」だったと言えます。この50年は学校に行かない子どもたちにとって受難の歴史だった一方、親の会やフリースクールなどの市民運動が立ち現れてもきました。いったい「不登校50年」の歴史は何を語るのでしょう。不登校をめぐって、時代ごとにどんな状況があり、どのように問題とされ、どう対応されてきたのでしょうか。
 統計開始から50年にあたる2016年、全国不登校新聞社では、不登校50年証言プロジェクトを開始し、2年あまりにわたり、不登校経験者、親、親の会、居場所・フリースクール、医療、心理、施設関係者、教員、学者、ジャーナリストなど、さまざまな関係者の生の声を集め、記事にしてきました。本数にして47本、証言者の数は52名。これらの証言はアーカイブとして残したいと考え、その社会的意義を考え、インタビューはすべて無料で公開しています。そのため、このプロジェクトは寄付を募って運営させていただき、多くのみなさんにご寄付をいただきました。ご協力いただいたみなさん、プロジェクトの記事を読んでくださったみなさんに、厚く御礼申し上げます。

2018年10月15日
全国不登校新聞社

→全インタビュー記事収載PDF
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2018年10月08日

#47 奥地圭子さん

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(おくち・けいこ) 
1941年生まれ。4歳のときに東京大空襲に遭い、父の郷里広島で育つ。1963年、横浜国立大学学芸学部卒。その後22年間、公立小学校教員。1984年「登校拒否を考える会」設立。1985年に東京シューレを開設。1990年、登校拒否を考える各地の会ネットワーク設立(現在はNPO法人登校拒否不登校を考える全国ネットワーク)。1998年、NPO法人全国不登校新聞社設立。2001年、NPO法人フリースクール全国ネットワーク設立。2006年学校法人東京シューレ学園設立。いずれも代表理事、理事長を務めている。2007年東京シューレ葛飾中学校開校、2018年3月まで校長。2012年「多様な学び保障法を実現する会」設立、現在まで共同代表。2015年文科省「フリースクール等検討委員会」委員就任。

インタビュー日時:2018年9月6日
聞き手:朝倉景樹
場 所:東京シューレ王子
写真撮影:今井睦子

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〈テキスト本文〉

朝倉 このプロジェクトの最終回に、奥地さんに話していただくことになったわけですが、奥地さんの不登校との関わりは、質も幅も、非常に深く広いものがあるかと思います。まずは、不登校との関わりの概略をお話しいただけますでしょうか。

奥地 文部省(当時)が、1966年に「学校嫌い」の統計を開始して、ちょうど50年にあたる2016年に、このプロジェクトを開始したわけですが、50年と言うと半世紀ですから、さすがに長い時間ですね。
 私が不登校に関わるようになったのは、自分の子どもの不登校からで、1978年のことだったので、ちょうど40年前のことです。ですから、約50年のうち40年は関わってきたことになります。70年代半ばというのは、ちょうど不登校が増え始めるころで、まだ私のまわりでも見かけることがなかったんですが、本屋さんには、すでに登校拒否を治すような本が置かれるようになって、戸塚ヨットスクールがマスコミに出始めたりしていました。この40年間、不登校から学ぶことは、ほんとうに多くありました。
 私も当初は、親として「どうやったら学校へ元気に行けるようになるんだろう」と思っていたんですが、そういうことじゃないんだと、自分の子どもの不登校から学んで、1984年に親の会「登校拒否を考える会」を始め、それから1年半経って、学校以外の居場所、学び場、子どもたちの活動の場があったらいいじゃないかとなって、85年に東京シューレを始めました。そういう活動がもとになって、1990年に「登校拒否を考える各地の会ネットワーク」という親の会のネットワークをつくって(現在の名称は「不登校・登校拒否を考える全国ネットワーク」)、2001年にはフリースクール全国ネットワークをつくりました。
 そういうなかで、だんだん輪が広がってきたと思うんですね。以前から、当事者の発信は大事だと思っていたんですが、学校に行って当たり前という社会通念があるなかでは、「私は不登校してました」とか、「うちの子は登校拒否だったんです」とは、なかなか言えなかった。しかし、いまはだんだん当事者発信の時代になってきたと思います。私たちは、1998年に不登校新聞を創刊しましたが、そこでも不登校経験を持つ人たちが編集部で大活躍することで、世の中の不登校への寛容度がだんだんに上がってきたのかなと思います。
 うちの子が不登校だったころは、「首に縄をつけてでも学校へ行かせないと、ズルズル社会に出られなくなる」だとか、非常にひどい言葉ですけど「廃人になる」と言われることまでありました。そういうところから、いまは受けとめ方もやっと変わってきて、「学校復帰が前提ではない」とか、「不登校を問題行動と判断してはならない」と、文部科学省が通知を出したり、学習指導要領の総則に書く時代になった。それは、すごく大きな変化です。でも、それはやっと、この3年ほどのことですね。
 不登校に長く関わってきて、学校復帰が前提というのは、なかなか変えられない難しいことだったんですが、それがやっと変わってきた。それは一番うれしい、いろいろやってきてよかったなと思うところですね。
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posted by 不登校新聞社 at 12:00| Comment(1) | 居場所・フリースクール関係

2018年09月04日

#46 山田潤さん

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(やまだ・じゅん)
1948年、岡山県新見市生まれ。京都大学文学部を卒業後、松原専修職業訓練校で板金工作を学び、72年から77年まで吉田板金工作所に勤める。77年、今宮工業高校の定時制課程の英語科教員に。91年、「学校に行かない子と親の会(大阪)」を立ち上げ、世話人代表を務める。98年の不登校新聞創刊時から2002年まで、全国不登校新聞社の理事を務めた。98年から2014年まで関西大学非常勤講師。訳書に『ハマータウンの野郎ども』(ポール・ウィリス/熊沢誠、山田潤訳/筑摩書房1985)、『大英帝国の子どもたち 聞き取りによる非行と抵抗の社会史』(スティーヴン・ハンフリーズ /柘植書房新社)。

インタビュー日時:2018年7月27日
聞き手:山下耕平、貴戸理恵、栗田隆子、田中佑弥
場 所:ココナッツハウス(大阪市)
写真撮影:山下耕平
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〈テキスト本文〉

山下 2年半にわたった、このプロジェクトを終えるにあたり、関東チームでは奥地圭子さんに、関西チームでは山田潤さんにインタビューすることになりました。よろしくお願いします。まずは、山田さんの子ども時代のことからうかがいたいと思います。

山田 私は、1948年、岡山県新見市唐松で生まれました。父方の祖父が唐松小学校の校長だったのをはじめ、一族みな教員で、父も小学校の教員でした。父は敗戦時に台湾から命からがら復員して、戦後は農地解放運動や新見市政の民主化運動などにも取り組んでいたのですが、レッドパージで唐松に住めなくなって、1951年、私が3歳のときに、夜逃げ同然で大阪府寝屋川市に出てきたんです。母親が私と産まれたばかりの弟をつれて、ほんとうに無一物で出てきた。持っていたのは、毛布と鍋ぐらいです。住んだのは、四畳半ほどの農家の納屋のようなところで、台所も便所も押し入れもなくて、たったひとつの家具は、割れた丸いテーブルをつなぎ合わせたちゃぶ台でした。
 レッドパージのなか、どうやってもぐりこんだのかわかりませんが、父は寝屋川でも小学校の教員に職を得ました。しかし、かなり貧しい暮らしで、当時、母親がどうやって炊事していたのか、ようわからんのです。たぶん庭に七輪を出して、そこで煮炊きしていたんだと思います。ただ、当時は、ほかにも似たような貧しい環境で暮らしている子はいっぱいいましたから、私や弟には、貧乏に苦しめられたという記憶はないんですね。

山下 お父さんが、家に貧しい家の子をつれてきていたとおっしゃってましたね。

山田 修学旅行の前には、かならずと言っていいほど、クラスの子どもをひとりつれてきて、風呂に行かせて、古着を買ってきて、身づくろいをさせてから修学旅行につれていっていました。

山下 山田さんの小学校時代は、1950年代ということになりますかね。

山田 小学校入学が1954年です。小・中学生のあいだに、寝屋川市内で4回引っ越しをして、そのたびに少しずつ暮らしぶりはよくなっていきました。3回目の家は左官屋さんの離れで、弟とふたりで便所の汲み取りをしていたのを覚えてます。バキュームカーが来る前のことで、母親に50円やるよと言われて、汲み取りをして近所の野壺に入れてました。それを農家の人が肥料にするわけですね。
 それと、子どものころはぜんぜん勉強をしたという記憶がないんです。とにかく遊びまわっていました。当時は、家の近くには信号がひとつもなかったんです。中学生のとき、全校生徒が集められて、「交通信号がつきます。これはどういうものかというと……」と、寝屋川署のおまわりさんが来て説明していたのを覚えてます。そういう状況だったので、あちこちに子どもの遊ぶ基地があって、とにかく遊ぶことがいっぱいあった。親にも、勉強しろと言われた覚えはなかったですね。
 学校も、農繁期にはたくさんの子どもが休んでました。まだ、多くの家では、生活と仕事が結びついていたんですね。

栗田 山田さん自身が休むことは?

山田 僕はずっと皆勤で、小・中・高と、生徒会長をやったり、送辞も答辞も読むような生徒でした(笑)。

山下 当時は、学校が文化に接する唯一の場だったとおっしゃってましたね。

山田 ほんとうにそうでした。最初に映画を観たのも学校だったし、レコードを聴いたのも、テープレコーダーに自分の声を入れて聴いたのも学校でのことで、文明の利器はすべて学校にあった。図書館には本がたくさんあるし、狭い家にいるより学校にいるほうが確実に落ち着いた。そういう子は、私だけではなくて、たくさんいたと思います。
 ただ、当時の教師はぜんぜんダメだったと思います(笑)。受け持ってもらった先生のなかに、あれは立派な先生だったというような人は、ひとりもいなかったですね。それでも、子どものほうから学校の「聖性」のようなものは感じていて、秩序としては成り立っていたんだと思います。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 12:59| Comment(2) | 親/親の会