2017年11月15日

#28 松崎運之助さん

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(まつざき・みちのすけ)
1945年、中国東北部(旧満州)生まれ。 中学卒業後、三菱長崎造船技術学校、長崎市立高校(定時制)を経て、明治大学第二文学部卒業。 江戸川区立小松川第二中学校夜間部に14年間勤務ののち、足立区立第九中学校を経て、足立区立第四中学校夜間部勤務。2006年定年をもって退職。 著書に『夜間中学―その歴史と現在』(白石書店1979)、『学校』(晩聲社1981)、『青春』(教育史料出版会1985)、『母からの贈りもの』(教育史料出版会1999)、『ハッピーアワー』(ひとなる書房2007)、『路地のあかり ちいさな幸せ はぐくむ絆』(東京シューレ出版2014)など多数。

インタビュー日時:2017年8月22日
聞き手:佐藤信一、野村芳美
場 所:東京シューレ王子
写真撮影:佐藤信一
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〈テキスト本文〉

佐藤 今日はよろしくお願いします。最初に松崎さんご自身について、お話しいただきたいと思います。

松崎 僕は1945年に満州で生まれました。上に兄貴がいたのだけど、日本に向かって逃避行を続けるさなかに亡くなってしまった。親がついていながら、わが子をそういうふうにさせたということで、おふくろは自分も(お腹の中にいる)この子といっしょに死ぬんだと言って騒いでいたそうですが、まわりの人たちに「亡くなった子のぶんも思いを託してその子を産むんだ、みんなの希望になると思うよ」と説得されて、それで僕を生んでくれた。
 おふくろは誕生日が来るたびに、「おまえは(戦後の混乱や貧困のなか)無念の思いで死んでいった子どもたちのお余りをもらって命をつないできたんだ。だから、おまえの命の後ろには、無念の思いで死んでいった、たくさんの子どもたち、大人たちの思いがつながっているんだ。みんなに生かされてきたんだ。みんなに支えてもらったんだ」ということをまっすぐに話す人だったんです。


●おふくろとの幸せな瞬間

 長崎に戻ってきたあと、おふくろは3人の子どもを食べさせるために、男の人に混じって力仕事をして、日銭を稼いでいました。帰ってくるのが遅いので晩ごはんを買ってくるんですが、疲れているから、すぐ横になって寝ちゃうんですよね。おふくろに寝られると、子どもである僕らは寂しくてしかたがない。朝早く出かけて行って、夜遅く帰ってきて、やっと帰ってきたと思ったら、寝てしまうでしょう。子どもなりに話したいことが山ほど溜まってるわけ。それで考えたんです。早めにおふくろを迎えに行こうと。向こうの橋が見える、あの橋の街灯の下でおふくろを迎えれば、帰る道々、話すことができると思ったんですね。
 当時、僕は小学校3年生で、2歳と3歳の妹・弟の保育園の迎えも僕が行ってましたので、妹と弟を連れて橋の街灯の下に出かけて行って、子ども3人で影踏み遊びなんかやりながら、おふくろの帰りをひたすら待ってました。やがて角を曲がっておふくろの小さな姿が見えると、 もう3人が歓声をあげて「母ちゃんおかえりなさい」って、大騒ぎ。押したり、引っぱったり、抱きついたり、それで3人が同時に話し始めて、もう1日で一番幸せな瞬間なんです。

野村 なんか、すごくぜいたくな感じがしますね。

松崎 そうそう。そのおふくろとの青空みたいな、そよ風みたいなものが、以後の3人の生活を支えてくれたんですよ。
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posted by 不登校新聞社 at 15:26| Comment(0) | 学校関係

2017年10月27日

#27 保坂展人さん

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(ほさか・のぶと)
1955年宮城県仙台市生まれ。高校進学時の内申書をめぐり、16年間の内申書裁判をたたかう。新宿高校定時制中退後、数十種類の仕事を経てジャーナリストになる。1996年から3期11年衆議院議員を務め、「国会の質問王」と呼ばれる。2011年4月、世田谷区長に当選、現在2期目。著書に『いじめの光景』(集英社文庫1994)、『88万人のコミュニティデザイン』(ほんの木2014)、『脱原発区長はなぜ得票率67%で再選されたのか?』(ロッキングオン2016)ほか多数。

インタビュー日時:2017年8月22日
聞き手:奥地圭子、木村砂織
場 所:世田谷区役所(東京都)
写真撮影:木村砂織
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〈テキスト本文〉

奥地 保坂さんには、以前、親の会や子どもたちの集まりでお話しいただいて、こういう生き方もあるんだということに力づけられました。本紙でも2005年に連載していただきましたが、その記事は、現在もホームページで見ることができるようになっています。
 まず、どんな子ども時代だったかということから、うかがいたいと思います。

保坂 生まれたのは仙台市で、幼稚園の途中までは、仙台にいました。そのころは、活発というよりは、どちらかと言えば内気なほうでしたね。

奥地 ちょっと、いまからは想像できないですね(笑)。

保坂 たとえば、昼どきに母に「パンを買ってきて」と言われても、店先に群がるお母さん方に押されて、ついに注文することができない。みんながいなくなってから店の人が気づいて、「僕なんなの?」と言われて、ようやくコッペパンを指さしたという記憶があります。

奥地 かわいい話ですね。

保坂 その後、地元の幼稚園から、くじ引きで当たって東北大学付属の幼稚園に移って、さらに父親が東京に転勤することになって、幼稚園年長の5歳ごろに、東京都世田谷区の幼稚園に移りました。東京に出てきて、母が幼稚園で仲よくなったお母さんから、東大を目指すには日比谷高校があり、日比谷高校に行く学校として麹町中学校があり、麹町中学に入りやすい小学校として3つの小学校があるという情報を仕入れてきて、小学校は越境通学することになったんです。当時、住んでいたのは世田谷区の桜上水だったのですが、そこから都心の麹町小学校まで、小学校1年生からひとりで電車に乗って通うことになったんです。鍵をぶら下げて、「鍵っ子」って言われますけど、そういう状態でした。そのころも、そんなに活発というよりは、ふつうの子でした。
 それが大きく変わるのは、小学校4年生から5年生にかけてでした。父が病気になって、仕事を休んで入院するということがあって、そのときに、なんか心配だけど、半分うれしいみたいな気持ちになったんです。

奥地 お父さんとのふれあいが増えたということですか?

保坂 いいえ、そういうことじゃないです。それまでは父がぜんぶ稼いできて一家の大黒柱だったのが、その父が病気になってしまったことで、なんか自分もしっかりしなければいけない、みたいな意識が生まれたんです。もしかすると越境通学もやめて地元の学校に戻らなければいけないかもしれないし、経済的なことも気になるようになった。この先どうしようとなって、母親の相談相手にもなったことで、すごく読書量も増えましたし、活発になったんです。小学校6年のときの作文には、「内閣総理大臣になって政治の姿を正したい」と書いているんです。小さな大人になったという感じがありました。

奥地 そうですか。なかなか意識が早いですね。

保坂 そうですね。そこで自分が大きく変わりました。通っていた麹町小学校は、わりとゆるやかな感じで、のびのびとすごしていたんです。しかし、麹町中学校に入ると、受験に特化した成績至上主義の学校で、ぎすぎすした感じがありました。たとえば、最初のテストから番付が公表されるんです。「100番以内の子は、いまから名前を呼ぶ」と言ってね。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 12:42| Comment(2) | ジャーナリスト・評論家

2017年10月20日

#26 松浦幸子さん

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(まつうら・さちこ)
1948年、新潟県生まれ。働きながら法政大学文学部で学び、1972年卒業。1982年、東京YWCA専門学校社会福祉科を卒業し、精神科ソーシャルワーカーに。1987年、心を病む人たちが食事づくりで交流する居場所、クッキングハウスを設立。クッキングハウスは、1992年に玄米食のレストランを始め、2001年にはティールームも開設。2005年12月、精神障害者自立支援賞(リリー賞)受賞。著書に『不思議なレストラン』『続不思議なレストラン』『生きてみようよ! 心の居場所で見つけた回復へのカギ』(教育史料出版会)など。

インタビュー日時:2017年9月14日
聞き手:山下耕平
場 所:クッキングハウス(東京都調布市)
写真撮影:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下 まずは、松浦さんの子ども時代のことから、うかがいたいと思います。お母さんは満州から引き揚げてこられたそうですね。

松浦 母は満州の安東(現在の丹東)に13年住んで、1946年11月に引き揚げてきました。父とのあいだには子どもが3人いて、私は3番目、生まれたのは1948年5月ですが、とても貧しくて、ほんとうに食べていけない状況だったんですね。父は病に臥せっていて、このままだと赤ん坊の私を育てられない、とにかく、この冬を越せるだけでもという思いから、その年の12月30日、母は子ども2人を置いて、私をおんぶして、新潟の農家に嫁いだんです。その家では、結核で先妻を亡くして、先妻の子どもも2人いて、働き手を探していたんですね。
 でも、当時の農村は貧しかったですし、育ての父の暴力がひどくて、母はすごく苦労していました。いまだったらDVで問題になるところですが、しょっちゅう殴られたり蹴られたりしていて、ケガをして働けなくなると、私は母を連れて、友だちの家に避難していました。それで、その家の方が「ご飯食べてきた?」と聞いてくれると、すごくホッとしたんです。聞いてくれないと、「ご飯食べてない」とは言えない。だから、「ご飯食べてきた?」と聞いてくれると、子どもながらにすごくうれしくて、安心しました。でも、かならず父が見つけて迎えに来て、帰らないといけない。そのときは屈辱的な思いがありましたね。
 それでも、私がいじけないですんだのは、母が子守歌のように、実の父のことを話してくれていたからだと思います。母は隠さない人だったので、「あなたのほんとうのお父さんは」とよく語ってくれて、母も父のことを尊敬していたことが伝わってきました。自分の心の誇りとして、暴力をふるう人はほんとうのお父さんではなくて、ほんとうのお父さんは立派な人だと思うことで、あの状況に耐えられたんだと思います。それと、口グセのように言っていたのは、「戦争は絶対にしてはいけない」ということでした。「戦争をすると人の心がずたずたに引き裂かれてしまうから、戦争はしてはいけないよ」と。

山下 実のお父さんは、満州では、どんな仕事を。

松浦 満州鉄道の社員で、安東で税務署の署長をしていたそうです。引き揚げのときは、最後まで引き揚げ者名簿をつくっていて、過労で担架で船に運ばれて、帰国後も何年も病気が癒えず、復帰するまでがたいへんだったようです。その後、いまの新潟県三条市で信用組合をつくって、信頼のある仕事をして亡くなったそうです。
 父が亡くなったとき、遺産相続の手続きで私の存在が兄弟にわかって、兄たちと会うことができました。しかし、私は父には1回も会うことはできませんでした。母は「そのことだけは申し訳なかった」と悔いていました。

山下 戦争が引き起こしてしまった事態のなかで、お父さんにもお母さんにも、引き裂かれるような思いがあったのでしょうね……。松浦さんが育ったのは、1950年代の農村地域で、しかも、もともとは小作農の家だったんですよね。かなり生活状況は厳しかったんでしょうか。

松浦 ほんとうに貧しかったですね。母が再婚した家は、玄関はむしろがかかっているだけで、むしろ戸を開けると馬がいて、その馬が横を向いているあいだに、そっと通り抜けないと中に入れない。屋根も、杉皮を葺いた上に重石が乗っかっていてね。台風なんかが来ると、屋根の石がごろごろ落ちてくるんです。
 おじいさんは、口ぐせのように「塩をなめなめ金を貯めて田んぼを買うたんだ」と言ってました。ぜいたくは許せないというので、あるとき、料理にしょうゆや油を使ったというだけで怒鳴られて、養父に茶碗を投げつけられて、母は足をケガしていました。でも、うちだけではなくて、当時は、どこの家も貧しかったですね。
 母は、夜遅くまで畑にはいつくばって働いていて、そこで泣いていたそうです。ほんとうにどうしようもなくて泣いたとき、誰にも言えない思いを、土が受けとめてくれて、癒やしてくれる。それで、「土はいいもんだね。さんざん泣いても、土の上だと、あとが元気になって体がしゃんとする」と言っていました。

山下 松浦さん自身も、ご苦労があったでしょうね。

松浦 当時、私は栄養失調みたいな状態だったんですね。就学前にそう言われたものですから、母は心配して、夜、寝ていると、布団のなかに煮干しとかを入れてくれるんです。ふとんをかぶりながら、煮干しをかじるんだけど、音を立てないようにするのが大変でね。あと、一番つらかったのは、私の茶碗だけ、ご飯の下に生卵が沈めてあることがあってね。丸いちゃぶ台で、まわりには、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、先妻の子も2人いるでしょう。どうやって隠して食べていいかわからない。必死になって、真っ赤な顔をして緊張して食べていたのを、いまでも覚えてます。でも、それくらい、栄養が足りなくて弱かったんですね。
 そういう経験があるから、後に、私が心の病気をした人と出会ったときに、やはり、ご飯が大事だと思ったんです。緊張しないで、みんなで明るく笑い合ってご飯を食べられることができたらいいのにと、ずっと思っていたんだと思います。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 17:58| Comment(4) | 居場所・フリースクール関係