2018年09月04日

#46 山田潤さん

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(やまだ・じゅん)
1948年、岡山県新見市生まれ。京都大学文学部を卒業後、松原専修職業訓練校で板金工作を学び、72年から77年まで吉田板金工作所に勤める。77年、今宮工業高校の定時制課程の英語科教員に。91年、「学校に行かない子と親の会(大阪)」を立ち上げ、世話人代表を務める。98年の不登校新聞創刊時から2002年まで、全国不登校新聞社の理事を務めた。98年から2014年まで関西大学非常勤講師。訳書に『ハマータウンの野郎ども』(ポール・ウィリス/熊沢誠、山田潤訳/筑摩書房1985)、『大英帝国の子どもたち 聞き取りによる非行と抵抗の社会史』(スティーヴン・ハンフリーズ /柘植書房新社)。

インタビュー日時:2018年7月27日
聞き手:山下耕平、貴戸理恵、栗田隆子、田中佑弥
場 所:ココナッツハウス(大阪市)
写真撮影:山下耕平
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〈テキスト本文〉

山下 2年半にわたった、このプロジェクトを終えるにあたり、関東チームでは奥地圭子さんに、関西チームでは山田潤さんにインタビューすることになりました。よろしくお願いします。まずは、山田さんの子ども時代のことからうかがいたいと思います。

山田 私は、1948年、岡山県新見市唐松で生まれました。父方の祖父が唐松小学校の校長だったのをはじめ、一族みな教員で、父も小学校の教員でした。父は敗戦時に台湾から命からがら復員して、戦後は農地解放運動や新見市政の民主化運動などにも取り組んでいたのですが、レッドパージで唐松に住めなくなって、1951年、私が3歳のときに、夜逃げ同然で大阪府寝屋川市に出てきたんです。母親が私と産まれたばかりの弟をつれて、ほんとうに無一物で出てきた。持っていたのは、毛布と鍋ぐらいです。住んだのは、四畳半ほどの農家の納屋のようなところで、台所も便所も押し入れもなくて、たったひとつの家具は、割れた丸いテーブルをつなぎ合わせたちゃぶ台でした。
 レッドパージのなか、どうやってもぐりこんだのかわかりませんが、父は寝屋川でも小学校の教員に職を得ました。しかし、かなり貧しい暮らしで、当時、母親がどうやって炊事していたのか、ようわからんのです。たぶん庭に七輪を出して、そこで煮炊きしていたんだと思います。ただ、当時は、ほかにも似たような貧しい環境で暮らしている子はいっぱいいましたから、私や弟には、貧乏に苦しめられたという記憶はないんですね。

山下 お父さんが、家に貧しい家の子をつれてきていたとおっしゃってましたね。

山田 修学旅行の前には、かならずと言っていいほど、クラスの子どもをひとりつれてきて、風呂に行かせて、古着を買ってきて、身づくろいをさせてから修学旅行につれていっていました。

山下 山田さんの小学校時代は、1950年代ということになりますかね。

山田 小学校入学が1954年です。小・中学生のあいだに、寝屋川市内で4回引っ越しをして、そのたびに少しずつ暮らしぶりはよくなっていきました。3回目の家は左官屋さんの離れで、弟とふたりで便所の汲み取りをしていたのを覚えてます。バキュームカーが来る前のことで、母親に50円やるよと言われて、汲み取りをして近所の野壺に入れてました。それを農家の人が肥料にするわけですね。
 それと、子どものころはぜんぜん勉強をしたという記憶がないんです。とにかく遊びまわっていました。当時は、家の近くには信号がひとつもなかったんです。中学生のとき、全校生徒が集められて、「交通信号がつきます。これはどういうものかというと……」と、寝屋川署のおまわりさんが来て説明していたのを覚えてます。そういう状況だったので、あちこちに子どもの遊ぶ基地があって、とにかく遊ぶことがいっぱいあった。親にも、勉強しろと言われた覚えはなかったですね。
 学校も、農繁期にはたくさんの子どもが休んでました。まだ、多くの家では、生活と仕事が結びついていたんですね。

栗田 山田さん自身が休むことは?

山田 僕はずっと皆勤で、小・中・高と、生徒会長をやったり、送辞も答辞も読むような生徒でした(笑)。

山下 当時は、学校が文化に接する唯一の場だったとおっしゃってましたね。

山田 ほんとうにそうでした。最初に映画を観たのも学校だったし、レコードを聴いたのも、テープレコーダーに自分の声を入れて聴いたのも学校でのことで、文明の利器はすべて学校にあった。図書館には本がたくさんあるし、狭い家にいるより学校にいるほうが確実に落ち着いた。そういう子は、私だけではなくて、たくさんいたと思います。
 ただ、当時の教師はぜんぜんダメだったと思います(笑)。受け持ってもらった先生のなかに、あれは立派な先生だったというような人は、ひとりもいなかったですね。それでも、子どものほうから学校の「聖性」のようなものは感じていて、秩序としては成り立っていたんだと思います。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 12:59| Comment(2) | 親/親の会

2018年08月28日

#45 西村秀明さん

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(にしむら・ひであき)
1949年、山口県生まれ。1972年、日本大学文理学部心理学科卒業、山口県中央児童相談所、宇部保健所(現宇部健康福祉センター)、山口県精神保健福祉センターを経て、2003年より宇部フロンティア大学教授。臨床心理士。精神保健福祉士。著書に『子どもの心理 親の心理―子育てはこころ育て』、『ひきこもり その心理と援助』、久保武さんとの共著に『不登校の再検討―子どもたちへの理解と対応 思春期精神保健活動からの報告』(いずれも教育史料出版会刊)。

インタビュー日時:2018年6月30日
聞き手:奥地圭子
場 所:東京シューレ大田
写真撮影:木村砂織

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〈テキスト本文〉

奥地 今日はよろしくお願いします。

西村 今日はこの冊子(『不登校への理解―その実践からの報告―』)を持ってきました。

奥地 ずいぶん前の資料ですね。東京シューレで山口にうかがった際、シンポジウムをしたときの記録ですね。日付は1990年7月29日、場所は山口県視聴覚センターとなってますね。西村さんとの出会いが相当古いことがわかります。

西村 もっと前からで、たしか86〜87年のことです。

奥地 85年に東京シューレができているので、その次の年あたりですね。

西村 すぐに知りました、東京に変な人がいると(笑)。

奥地 当時の状況では、そうだと思いますよ(笑)。

西村 このプロジェクトのインタビューに、中澤淳さんも登場していますね(#40)。それで思い出して探してみたら、この冊子が出てきたんです。けっこうおもしろいことを言っていたなあと思って。

奥地 では、そのあたりの話から、お聞きします。そもそも、どうやってシューレのことを知っていただいたんですか。

西村 たまたまです。当時、精神衛生センター(現在は精神保健福祉センター)に不登校の相談が来ていたんですが、相談件数は増えているものの、当時はこちらもよくわからなくて、文献に頼るしかなかったんです。そうすると、たいていは本人の性格だとか、家族の問題だとか書いてあるわけです。でも、「何か変だ、そうなのかな?」と感じて悩んでいたところに、新聞で知ったんだったと思います。
 まあ、東京に変な人がいる、これは何かヒントをいただけるのではないかと思ったんです。それで、精神衛生センターの中国四国ブロックで協議会を開くところだったので、そこにお呼びしようじゃないかと。ちょうど山口が企画担当だったんです。それが奥地さんとの最初の出会いでした。

奥地 湯田温泉で行なわれた大会でしたね。それは覚えています。西村さんが、不登校と出会われたのは、いつごろですか。

西村 最初は、児童相談所にいたころです。
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posted by 不登校新聞社 at 15:02| Comment(0) | 心理関係

2018年08月07日

#44 兼子和美さん

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(かねこ・かずみ)
静岡市在住。現在24 歳の娘さんが小学校2 年生で不登校(2001年)、8 歳から18 歳まで11 年間、ホームエデュケーションで育った。15 歳のとき、学校にも行ってみたくなり、県立単位制高校に進学、ホームエデュケーションと半々の4 年間を過ごし、その後、公立大学国際関係学部に入学。13 歳のときに「植物を育てながら庭をつくる」仕事をしたいと思い立ったことから、現在、娘さんはイギリスの大学でガーデニング&ガーデンデザインを勉強している。

インタビュー日時:2018年5月24日
聞き手:奥地圭子
場 所:東京シューレ王子
写真撮影:本間周子

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〈テキスト本文〉

奥地 このプロジェクトでは、これまで、不登校に関わってきたさまざまの立場の方、当事者、親の方などに話をうかがってきました。ただ、ホームエデュケーションでお子さんの成長を考えてきたという方には、まだ登場していただいていないので、今日はホームエデュケーションについて、いろいろお話をうかがいたいと思っています。
 ホームエデュケーションでやっている方には、最初からわが家では学校に行かせないでホームエデュケーションでやるんだという方と、不登校をきっかけにホームエデュケーションを始めましたという方がおられますが、兼子さんの場合はどちらでしょうか?

兼子 不登校になってから、ホームエデュケーションをスタートしたというかたちになります。

奥地 日本ではそういう方が多いですよね。では、まずはお子さんの不登校経験をお話しください。

兼子 娘はいま24歳ですが、小学校2年生の3学期1月に、お腹が痛くて「学校に行くのが心配」ということから始まって、「学校に行きたくない」となって、不登校が始まりました。


●心に穴が空いて

奥地 親から見て、何か原因とかきっかけはあったんでしょうか。

兼子 それまでは、娘は「学校に行きたくない」と言ったことはなくて、ほぼ皆出席で学校に通ってたんです。1年生のときは「楽しい」って言ってたんですけど、2年生のあたりから少し顔の表情が曇ってきて、夏休みに「心に穴が空いて何をしても埋まらない」と言ったんです。

奥地 すごい言葉ですね。

兼子 そうですね。7歳の子が言うようなセリフではないなあと思って、そのときから、「もしかしてこの子は、この先不登校になるんじゃないかな」という予感がありました。

奥地 「心に穴が空いて……」と、学校に行きながら感じていたというのは、どういう学校の状況が関係していると思われましたか?

兼子 夏休み以降も、娘は「行きたくない」と言うことはいっさいなく、表面的には変わりがなかったので、何かはあるんだろうと思っていましたけど、いじめのような具体的な出来事ではない気がしていました。その後、学校に行けなくなった理由について、娘は「このまま学校に行き続けたら、先生の言うことを聞くだけのロボットにされてしまう」と言っていました。「真っ黒な怪物がやってきて、その怪物に心を占領されたら、もう元にはもどれなくなってしまう」みたいな表現もしていました。ですから、具体的な何かというよりも、全体的な感じだったと思います。
 また、大人になってからの表現ですが、「先生は教室の、学級という王国の王様で、その先生に逆らうことはできなかった」「学校全体の圧迫感みたいなものがイヤだったんだと思う」と言っていました。

奥地 やっぱり、学校に気持ちよく、楽しく通っていたわけじゃないという印象ですね。

兼子 そうですね。「学校に行くのが心配」と言ってから2週間後ぐらいに、娘が「学校に行きたくない」と言ったので、私のほうも、学校に行かせなくなりました。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 16:44| Comment(0) | 親/親の会