2017年06月28日

#21 うめざわしのぶ さん

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1978年、山口県周南市生まれ。小学6年生のころ、学校に行くつらさを感じ、無理をしながら登校を続けるなか、山口県精神保健センター(現在の精神保健福祉センター)と出会い、不登校となる。不登校時代は各地のシンポジウムやセミナーで、パネラーや講演などをして活躍。同センター内の居場所「星のうさぎ」を中心に、「東京シューレ」や各地のフリースクールと交流を持つ。中学卒業後、2年間のアルバイト期間を経て、福岡の調理師専門学校へ進学。19歳でレストランへ就職。20歳で結婚、出産。子育てをしながら飲食店で経験を積み、2005年、27歳で夫婦で飲食店を独立開業。10年目にして、自分をつちかってくれた土地でパン屋を開業するために、廃業。現在、夫と息子を福岡に残し、単身、山口県周南市でのパン屋開業準備中。

インタビュー日時:2016年10月29日
聞き手:奥地圭子、木村砂織、山口幸子
場 所:福岡市博多区の飲食店
写真撮影:木村砂織
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〈テキスト本文〉

奥地 しのぶさんは小6のときに、不登校が始まったということですが、幼児期・小学生時代はどのように過ごしていましたか?

うめざわ 私が生まれた年(1978年)の10月に、実家がスーパーを始めました。私が通っていた保育園の前に実家のスーパーがあるんですよ。いつも「家に帰りたいのに」って思っていましたね。小学校は、全校生徒15人の小さい小学校に入りました。人数が少なかったので、1〜2年、3〜4年、5〜6年の複式学級(ふたつ以上の学年をひとつにした学級)でした。私の年齢が一番人数が多くて6人で、そのうち女の子が私を含めて5人、女の子ばっかりで、低学年のころは、よく高学年の子にいじめられました。私は、わりとお勉強ができて、ハッキリものを言う「リーダータイプの子」だったから、上の子から叩かれるところがあったのかも。いまだにそうだけど。

奥地 大人になっても?

うめざわ 大人になってもそう。上からは叩かれるけど、同級生のなかではリーダータイプになるっていう。ハッキリものを言うし、痛いところを突いたりするわけですよ。かわいくないでしょ、そんなの。
 学校の授業に対しては、「学ぶ」というよりは「先生の考え方を押しつけられてるな」っていう窮屈感がいつもありました。小学校は、自分の思っていることを教育によって引き伸ばされるというよりは、先生の考えを刷り込まれる場所だと思っていました。
 それで、小学校6年のとき(1990年)に思ったのは、「学校は必要ない」ってことです。友だちとギクシャクした時期があって、自分にとって、学校に行く意味がなくなったんですね。「勉強するために学校に行くんだったら、私には学校は必要ないな」って思ったんです。だって、学校でやっている勉強は、ぜんぶわかったから。

奥地 自我に目覚めちゃったわけですね。

うめざわ 昔から本を読むのがものすごく好きで、知らないことを知るのが好きでした。

奥地 まあ、その後、世の中に出て学ぶことも多いからね。

うめざわ そうですね。社会と理科とか世の中の仕組みというのは、専門的なことは無理だけど、おおまかな成り立ちはテレビを観てればわかる。

奥地 暮らしのなかで学べるんですよね。本が好きなことは、自学自習にすごく役立ったんじゃない?

うめざわ 幅広いものの考え方ができるようになりました。それで、「もう行く必要がなくなったな」というのと、あとは、いろんなことが重なったんですね。思春期で、女の子は外見を気にしますよね。私はぽちゃぽちゃしてたから、それをほかの子から指摘されたのがイヤで、ダイエットを始めました。いまも、そういうところがありますけど、中途半端にできない性分で、ダイエットのつもりが、だんだん行き過ぎて神経的に食べられなくなって、拒食症ぎりぎりでした。それと「学校に行きたくない」というのが重なって、いま思えば、うつ状態だったんですね。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 20:32| Comment(0) | 当事者

2017年06月23日

#20 吾郷一二実さん、木村悦子さん

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(あごう・ひふみ)1951年、島根県生まれ。1989年より、3人のお子さんが、それぞれ不登校に。1991年、木村悦子さんたちとともに親の会「カタクリの会」を立ち上げ、1997年から世話人を務める。子どもの居場所「フリーダス」にも、立ち上げ当初から現在まで関わっている。(写真左)

(きむら・えつこ)1948年、岡山市生まれ。1990年より、3人のお子さんのうち2人が不登校に。1991年、吾郷一二実さんたちとともに親の会「カタクリの会」を立ち上げ1997年まで代表世話人を務めた。1991年より子どもの居場所を始め、1992年より「フリーダス」としてスタート。1997年までスタッフ代表を務める。2004年よりNPO法人YCスタジオを立ち上げ、理事長を務めている。(写真右)

インタビュー日時:2017年2月6日
聞き手:山下耕平
場 所:かたくりのはな(島根県松江市)
写真撮影:山下耕平
記事公開日:2017年6月23日
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〈テキスト本文〉

山下 まずは、それぞれ、お子さんの不登校経験からうかがいたいと思います。


●転校をきっかけに

木村 子どもは3人いるんですが、一番上の長女は不登校経験はなくて、2人目の長男と3人目の次男が学校に行きませんでした。長男が小学校6年生の夏休みに、神奈川から松江(島根県)に転校してきたんですね。そして2学期始業式の日、帰ってくると泣いていたんです。神奈川の学校では、先生が机の上に立ってギターを弾いて歌っていたり、木をくり抜いてつくったボートをプールに浮かべて遊んだり、遊びほうけていて、楽しい学校だったんですね。松江では、自然もいっぱいあって、もっとのんびりできるかと思っていたんですが、実際は、まったく逆でした。小学校なのに制服はあるし、道徳教育研究校で、校則や管理も厳しくて、班競争なんかもあって、すごくカチカチしていた。あとからわかったところでは、体罰もひどくてね。担任はヒステリックな女の先生で、算数なんかでも、決まった解き方をしないといけないし、どうでもいいことが厳しかった。いじめらしきものもあったようです。言葉がわからなかったこともあったでしょうね。「ほるもん持ってこい」と言われて、スーパーで肉のホルモンを買って持っていったら、「ほるもん」というのは彫刻刀のことだったり。
 それでも、かなり無理をしてがんばってたんだと思います。3カ月くらいは、行ったり行かなかったりしていて、まったく行かなくなったのは、12月ごろでした。
 その後、小学校は行かないまま卒業になって、中学校の入学式は、ちがう学校に行くから、すごく楽しみにしていて、飛び跳ねるようにして行ったんです。私たちも後ろからついていったんですが、クラスに入ったとたん、ダーッと飛び出てきて……。きっと、いじめっ子がいたんでしょうね。雨のなか傘をさして、校庭から恨めしそうに校舎を見てました。
 中学校には自学室というのがあって、しばらくは、そこに行ってたんです。でも、そこにいるのがわかると、ほかの子たちが外から石を投げてきたりするので、隠れて入ってました。窓に半紙を貼って見えないようにしてね。そのうち、その自学室に行くのもつらくなって、「もう自分は絶対に学校に行かない。もう学校やめた」と言って、中学校も行かなくなりました。
 「なんで行かないの?」と聴いたら、彼は「学校では、先生の体罰もあるし、陰湿ないじめもある。でも、それだけだったら耐えられた。僕は、なんとも言えない画一的な雰囲気がイヤなんだ」と言ったんです。それからは、頑として行きませんでした。

山下 行けなくなった当初は、どう受けとめておられたんでしょう?

木村 よく言われるように、まさに「青天の霹靂」ですよね。夢であってほしいと思ってました。「首に縄をつけてでも」ではありませんが、背負ってでも行かせようとしていたと思います。でも、いざ学校に行こうとすると、靴ひもがなかなか結べなかったり、「お母さん、学校はイヤだ」と言ってしがみついてくる。それでテコでも動かない。

山下 年代はいつごろになりますでしょうか。

木村 最初、長男が小学校に行かなくなったのは1990年のことでした。そのとき次男は小学校3年生で、やんちゃな子だったから、転校後も、いっしょにいたずらする友だちもいて、この子は大丈夫と思ってたんですが、長男と同じぐらいの時期に、だんだん行かなくなりました。次男のほうも、石を投げられり、物をなくされたり、教科書やノートが墨汁で真っ黒になってたり、「宇宙人みたい」と言われたり、いろいろやられてたみたいです。でも、学校の配慮もまったくなくてね。

山下 次男さんのほうは、どんなようすだったんですか?

木村 まず、制服に手が通せないんです。コタツのなかで軟体動物みたいになっていて、8時半ごろになると、おなかが痛くなってトイレから出てこない。それで9時ごろになると、ニッコリして出てくるの(笑)。
 学校のほうは、先生が迎えに来たり、クラスの子にお花とケーキとか持ってこさせたりしてね。「みんな、いい子ばっかりです」とか言うんだけど、子どもからしたら残酷ですよ。その子たちが帰ったあと、泣いちゃって大変でね。家を飛び出して、宍道湖がすぐ裏にあるので、飛び込まないかと心配で追っかけていったり、夜も泣くので抱いて寝てました。
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posted by 不登校新聞社 at 20:17| Comment(0) | 親/親の会

2017年06月09日

#19 堂本暁子さん

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(どうもと・あきこ)
1932年アメリカ合衆国カリフォルニア州生まれ。東京女子大学文学部卒業後、1959年、TBSに入社。記者・ディレクターとして、教育、福祉、ODA問題はじめ、チベットや北極への取材、日本女性マナスル登山隊同行取材など、報道番組やニュース番組の制作に携わる。1989年より2001年まで参議院議員、2001年より2009年まで千葉県知事を2期務めた。著書に『生物多様性』(岩波書店1995)、『堂本暁子と考える医療革命』(中央法規出版2009)『生物多様性―リオからなごや「COP10」、そして…』(ゆいぽおと2010)など多数。

インタビュー日時:2017年4月6日
聞き手:奥地圭子、木村砂織
場 所:堂本暁子さんご自宅
写真撮影:木村砂織
記事公開日:2017年6月9日
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〈テキスト本文〉

奥地 おひさしぶりです。今日は不登校について、いろいろお聞きしたいと思います。

堂本 私が奥地さんとお会いしたのは、82年か83年だったと思います。どういう経緯だったかは覚えてませんが、水道橋の交差点で「それじゃあ、またね」って言った景色はよく覚えてます。

奥地 水道橋で集会をやったので、そのときに来てくださっていたんですね。

堂本 私がTBSにいたころです。奥地さんに会わなかったら、私は、あんなに登校拒否の子どもの取材をして、番組をつくることはなかったと思います。おたがいに何か相乗効果があったんでしょうね。
 今日、お話しすることを整理しようとメモをつくったんですが、テーマとしては5つほどになりました。まず印象に残っているのは、奥地さんの3人のお子さんについてです。長男さんは、いま、どうされてるのですか?

奥地 いまは科学者です。京都大学を卒業して、東工大の大学院に行って、いまは地球物質科学系の研究所にいます。

堂本 そうですか。 2番目は、渡辺位先生(児童精神科医/1925―2009)のことですね。すごく大きな影響を受けました。3番目は、私が取材した登校拒否の子どもたち。4番目が、国会議員になってから出会った子どもたちです。いまでも覚えているけれど、文教委員会(当時)に東京シューレの子どもたちが傍聴に来てくれたでしょう。子どもたち自身が実際に国会審議を傍聴し、議員に要望して、自分たちの通学定期が使えるようになった(*1)。それは、すごく大きな経験だったろうと思うんです。5番目は、私が千葉県知事になって、県のモデルスクールをつくったりしたことです。

奥地 千葉県の「菜の花スクールモデル事業」で、無料で県の施設を貸してくださいましたね。

堂本 でもね、そのあたりは少ししか覚えてないのです。県のことは、たくさん、いろいろなことをやりましたからね。

奥地 そうですよね。では、その5点を中心に聞くとして、まずは、ご自身のことからうかがいたいのですが。

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posted by 不登校新聞社 at 15:21| Comment(0) | ジャーナリスト・評論家